千葉 耕太(ちば こうた、1998年4月22日 - )は、岩… 千葉 耕太(ちば こうた、1998年4月22日 - )は、岩手県盛岡市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。NPBでは育成選手であった。 小学1年から盛岡市立好摩小学校で野球を始める。盛岡市立巻堀中学校では軟式野球部に所属した。 花巻東高校進学後は、2年の夏に1学年先輩のエース高橋樹也を擁し、第97回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦の敦賀気比高校戦では7番ライトで出場し、平沼翔太からヒットを放った。3回戦の仙台育英高校戦では2打数0安打に終わり、チームも敗れた。2年秋から右肩痛を発症。3年夏も右肩痛の影響で登板機会が無く、4番ライトで出場したが、岩手県大会初戦の盛岡工業高校に敗れた。 2016年10月20日に行われたプロ野球ドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスに育成ドラフト1巡目で、投手として指名され、支度金200万円、年俸240万円で合意、入団。
菊池 雄星(きくち ゆうせい、1991年6月17日 - )は… 菊池 雄星(きくち ゆうせい、1991年6月17日 - )は、岩手県盛岡市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。MLBのロサンゼルス・エンゼルス所属。愛称は「U Say」他(後述)。 妻は元フリーアナウンサーの深津瑠美。代理人はスコット・ボラス。 盛岡市立見前小学校3年生の時に見前タイガースで一塁手として野球を始める。 盛岡市立見前中学校在学中は盛岡東シニアでプレー。この頃から本格的に投手へ転向した。3年春に岩手大会準優勝。東北選抜の一員に選ばれ、全国大会優勝に貢献。花巻東高等学校に進学。 高校1年時、第89回全国高等学校野球選手権大会に出場。1回戦・新潟明訓高戦にリリーフ登板し5回を1失点に抑えるもその1点が決勝点となり0-1で敗退。
國保 陽平(こくぼ ようへい、1987年3月14日 - )は… 國保 陽平(こくぼ ようへい、1987年3月14日 - )は、岩手県盛岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。元・岩手県立大船渡高等学校野球部監督。現在は盛岡白百合学園高等学校教諭、同校男子硬式野球部監督。 岩手県立盛岡第一高校、筑波大学体育専門学群を卒業。大学時代の同級生に坪井俊樹がいる。 社会人クラブチーム「Tsukuba Club」を経て、2010年にアリゾナサマーリーグに参加。同年、アメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグに所属するティフアナ・シマロンズ(英語版)と契約。25試合に出場し、打率.254(59打数15安打)、2本塁打、7打点の成績を残すも、同年限りで退団。 帰国後に体育教師として岩手県立花巻農業高校に赴任。
猪久保 吾一(いのくぼ ごいち、1967年12月26日 - … 猪久保 吾一(いのくぼ ごいち、1967年12月26日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(捕手)。 盛岡商業高では高校1年秋から捕手として活躍し、山蔭徳法(のちに日本ハム入り)とバッテリーを組んでいた。 高校卒業後は、社会人野球の本田技研鈴鹿に進むが、実家の家業を手伝うために1987年7月に退団。しかし、ロッテオリオンズのスカウトから声がかかり、同年12月に練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団。 入団2年目春季キャンプにて1軍合流、この年42試合に出場した。その後は青柳進や福沢洋一と正捕手争いをするが、決め手に欠け2軍生活が続く。1996年には自分の名前にちなんで背番号を51番にするが1軍出場はなく同年限りで現役を引退。
山蔭 徳法(やまかげ とくのり、1966年4月2日 - )は… 山蔭 徳法(やまかげ とくのり、1966年4月2日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(投手)。 盛岡商業高では猪久保吾一とバッテリーを組み、3年夏の県大会では同年春の選抜でベスト4に進出した大船渡高に準々決勝で惜敗した。 1984年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受け入団。 一軍出場のないまま、1987年に現役を引退した。 引退後は日本ハムの打撃投手を経て、岩手県の社会人野球・クラブチームの盛友クラブに参加していた。
太田 貴(おおた たかし、1965年11月28日 - )は、… 太田 貴(おおた たかし、1965年11月28日 - )は、岩手県盛岡市出身の元プロ野球選手(投手)。 盛岡市立高から、社会人野球の鷺宮製作所に進む。社会人時代は2年目から頭角を現し、右のオーバースローからストレートのMAXは148km/h程度。スライダー、カーブ、スピードが落ちずに小さく沈むというオリジナル・フォークを武器に通算72試合登板・32勝を記録した。 1988年オフに、ドラフト外で阪神タイガースに入団。 1993年4月20日には、二軍戦で打者27人のノーヒット・ノーランを達成するなど2軍ではトップクラスの選手だった。 しかし、一軍での登板数はあまり伸びず、1998年から打撃投手兼任になり背番号が30から106に変更となる。
田鎖 博美(たぐさり ひろみ、1961年6月15日 - )は… 田鎖 博美(たぐさり ひろみ、1961年6月15日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(投手)。 盛岡工業高では、2年秋の県大会準決勝では福岡高の欠端光則と投げ合って敗れ、1979年夏の県大会準決勝に進出するが、久慈高に惜敗し甲子園出場はならなかった。 好投手として評判が高く、高校卒業後は社会人野球のプリンスホテル入りすると言われるなかで、1979年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受け入団。貴重な大型左腕投手であり、新入団時に背番号18を与えられるなど期待された。 プロ入り後は故障もあって結果を残せず、1985年にはサンノゼ・ビーズへ野球留学した。結局7シーズンの在籍中一軍で一度も登板できず、1986年限りで現役を引退した。
佐藤 良一(さとう りょういち、1934年6月8日 - 20… 佐藤 良一(さとう りょういち、1934年6月8日 - 2016年11月3日)は、岩手県盛岡市出身のプロ野球選手。 盛岡工業高校から日本石油を経て1955年に近鉄パールスへ入団。 1958年に退団し、盛岡鉄道管理局でプレーを続けた。後に監督になり、宮城建設でも監督を務めた。 2016年11月3日に死去。
沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1… 沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1987年12月5日)は、岩手県出身のプロ野球選手(投手)。 盛岡商業学校時代の1936年、夏の甲子園にエースとして出場するも、初戦で全国制覇した岐阜商業学校に大敗した。 高校卒業後は、日本製鐵釜石へ進み、盛岡鉄道管理局へ移籍するとエースとして活躍。1948年の全国鉄道大会では優勝に貢献した。 1950年に創設したばかりの近鉄に入団した。チーム公式戦の第2戦、1950年3月13日の対南海戦に先発完投勝利を挙げ、これが球団および自身の公式戦初勝利となる。この年は50試合に登板、チーム最多の18勝をマークするも、チーム自体は首位毎日から37.5ゲーム差の最下位だった。
獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17… 獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17年)3月25日 - 1941年(昭和16年)10月29日)は、日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の中心選手であり、早大草創期の主力でもあった。また、岩手県や満州で後進の育成に努め、「岩手野球の父」とも呼ばれる。守備位置は外野手、三塁手、投手。 岩手県盛岡加賀野村(現・盛岡市)出身。1897年(明治30年)、盛岡尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学する。一学年下に歌人の石川啄木がいたが、獅子内が落第して同級生となったこともあって親しかった(当時の盛岡中学は成績に厳しく、一度も落第せずに卒業できる生徒は学年全体の4分の1程度であった)。