中平 均(なかたい ひとし、1971年〈昭和46年〉12月3… 中平 均(なかたい ひとし、1971年〈昭和46年〉12月3日 - )は、日本の政治家。岩手県久慈市長(1期)。元岩手県議会議員(5期)。 岩手県久慈市生まれ。岩手県立久慈高等学校、岩手大学人文社会科学部卒業後、建設省東北地方建設局勤務を経て小沢一郎衆議院議員秘書を務める。2003年、岩手県議会議員に初当選。以後、1度の落選を挟み通算5期務める。 2026年3月、久慈市長選挙に立候補し、初当選した
畑 浩治(はた こうじ、1963年9月28日 - )は、日本… 畑 浩治(はた こうじ、1963年9月28日 - )は、日本の建設官僚、政治家、行政書士。元衆議院議員(2期)。 国土交通省総合政策局情報企画課課長補佐、都市基盤整備公団公園企画課課長、独立行政法人都市再生機構営業推進室チームリーダー、民主党幹事長補佐、生活の党幹事長代理兼総合政策会議議長などを歴任した。 1963年、岩手県久慈市に生まれる。父親は大工であった。1981年、岩手県立盛岡第一高等学校を卒業した。上京して早稲田大学に入学、法学を専攻した。1985年、早稲田大学を卒業した。 「地域の発展に携わりたい」と考え、1987年に建設省に入省した。建設省の内部部局においては、1992年に道路局の道路総務課にて企画係の係長となり、第11次道路整備5か年計画の策定に携わった。
遠藤 譲一(えんどう じょうじ、1953年〈昭和28年〉11… 遠藤 譲一(えんどう じょうじ、1953年〈昭和28年〉11月16日 - )は、日本の政治家。元岩手県久慈市長(3期)。 岩手県久慈市出身。久慈市立久慈小学校、久慈市立久慈中学校卒業。1972年3月、岩手県立久慈高等学校卒業。1977年3月、中央大学法学部卒業。同年4月、岩手県庁に入庁。 1997年、久慈地方振興局総務部企画振興課長、2006年、県住宅供給公社、県土木開発公社総務部長を歴任。2008年、県南広域振興局北上総合支局長に就任。2009年12月、岩手県庁退職。 2010年3月、久慈市長選挙に立候補。三つ巴の激戦になり現職の山内隆文にわずか53票差で落選。 2014年、久慈市長選に再び立候補し、前回と同様一騎討ちの大激戦となり約3千票差で現職の山内を破り初当選した。
久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 … 久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 - 1979年(昭和54年)2月16日)は、日本の政治家。岩手県久慈市長、岩手県議会議員(自由民主党所属)。 岩手県久慈市生まれ。1937年麻布獣医専門学校(現在の麻布大学)卒業。同4月農林省獣疫調査所(現在の動物衛生研究所)技手、1948年侍浜町農協組合長および侍浜町漁協組合長、1949年久慈市農業委員を歴任。1951年侍浜村議となり、1954年久慈市議会議員となる。1967年岩手県議会議員に当選する。 岩手県議3期を務めた後、1978年(昭和53年)に久慈市長選に自民党、社会党、公明党、民社党の推薦を得て立候補し、市制施行以来6期連続で市長を務めていた保守系無所属の現職、山内堯文を破り初当選した。
小田 文行(おだ ぶんこう、1861年12月9日(文久元年1… 小田 文行(おだ ぶんこう、1861年12月9日(文久元年11月8日) - 1921年(大正10年)4月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 陸奥国九戸郡宇部村(岩手県南九戸郡宇部村、九戸郡宇部村を経て現久慈市)出身。宇部村会議員、同村長、九戸郡会議員、岩手県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員、九戸馬産会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙には不出馬。1921年死去。
小笠原 定一(おがさわら ていいち、1840年(天保11年9… 小笠原 定一(おがさわら ていいち、1840年(天保11年9月) - 1905年(明治38年)10月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国九戸郡(のち岩手県南九戸郡久慈町、九戸郡久慈町を経て現久慈市)生まれ。岩手県属、九戸、二戸両郡長を務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙において岩手2区から国民協会所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙では立憲改進党から立候補して落選した。1905年に死去した。
小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年… 小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年11月4日) - 明治34年(1901年)4月5日)は、岩手県九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。通称は仙弥。 昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 明治10年(1877年)の西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵の計画に参画するが未然に検挙され(首謀者の神職の名から「真田太古事件」と呼ばれる)、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。明治31年(1898年)には第5回衆議院議員総選挙に岩手県第2区から出馬し衆議院議員に当選。