笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(… 笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(文久1年11月10日) - 1929年(昭和4年)7月21日)は、日本の警察官、実業家。愛知郡長退官後に名古屋市東郊耕地整理組合長ほか複数の土地整理組合で幹部を務め、名古屋における土地整理事業の先駆者に位置づけられる人物である。石川電気鉄道社長。 会津藩藩士笹原八百吉の長男として若松栄町に生まれる。福島師範学校の前身校に学んで教職に就いたのち埼玉県で巡査となり、山梨県警察部警務課長を経て、静岡県警察署長まで昇進した。1904年(明治37年)に辞職後、賀茂郡、南設楽郡で郡長を務める。1913年(大正2年)3月に愛知郡郡長を辞任し、名古屋市東郊耕地整理組合長、八事耕地整理組合、港東土地区画整理事業組合及び音聞山土地区画整理事業組合の各副長として当時の名古屋市近郊の土地整理事業を推進した。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年8月14日〉 - 1882年〈明治15年〉7月4日)は、日本の警察官である。戦国大名荒木村重の子孫で、西南戦争を戦ったのち殉職した。警察官としての階級は一等巡査(現在の警部補相当職)。 荒木家は荒木信重が保科正之に仕えて以来、江戸時代を通じ会津松平家家臣であった。父は重義と名乗り、会津戦争において会津若松城に籠城したが、開城後ほどなく病死している。荒木三郎重謹はその三男であった。母とともに斗南へ移り開墾に従事したが、約六年の斗南生活を終えて上京した。巡査となった荒木は西南戦争において勅使として派遣された柳原前光に従って鹿児島へ向かい、のち別働隊に加わり度々功績を挙げた。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(184… 加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(1849年6月21日) - 昭和10年(1935年)6月17日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏、警察官、教育者、銀行家である。号は六石。 若松城下に生まれる。藩が戊辰戦争に敗れたのち、青森中学の助教となる。次いで警察官となり、千葉県警察署長に就任。明治9年(1876年)、同藩出身の永岡久茂らが萩の乱に呼応して挙兵を図り千葉へ向う途中で乱闘となり検挙された(思案橋事件)。これは千葉に加藤ら会津藩出身の警察官がいたため、永岡は加藤らの協力を期待して千葉での挙兵を計画したといわれる。 翌年生起した西南戦争において加藤は抜刀隊小隊長となり歴戦している。
石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正1… 石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正14年(1925年)10月10日)は、日本の武士、警察官、地方官吏である。会津藩士として戊辰戦争を、また西南戦争を戦った。田山花袋は義弟。旧姓生亀、雅号盤石。 会津藩士の生亀家に生まれる。父は可汲。戊辰戦争では佐川官兵衛麾下として北越戦争を戦い、重傷を受け若松へ後送されている。明治5年(1872年)に警察官となり、少警部に昇進。また明治10年(1877年)には陸軍歩兵中尉に任官した。西南戦争に出征し、再び負傷している。警察官としては五等警視 に昇り、淀橋警察署、富岡門前警察署、本郷警察署でそれぞれ署長を務めた。明治19年(1886年)から明治25年(1892年)まで東白川郡郡長を務めて退官した。
小出 光照(こいで みつてる、弘化2年〈1845年〉 - 明… 小出 光照(こいで みつてる、弘化2年〈1845年〉 - 明治7年〈1874年〉2月18日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏である。通称は鉄之助、号は斗南。 父・小出只五郎は篠田家の出身である。妻・操は山川浩の妹、山川健次郎・大山捨松の姉で、のちに明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官で権掌侍。 藩校・日新館の秀才として知られ、通常より3年早く15歳で一等試学に及第。藩主・松平容保の小姓に抜擢される。小出は江戸遊学を許されて古屋佐久左衛門の私塾に通い、洋学を学んだ。しかし花見の帰りに番所役人に咎めを受け、揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰藩を命じたが、古屋と相談した小出は脱藩して外国に赴くことを決意。
井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1… 井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1830年2月19日) - 明治30年(1897年)3月19日)は、日本の幕末から明治にかけての武士(会津藩士)、地方官吏、教育者である。幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。 父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、京都守護職となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。慶応2年(1866年)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・日新館館長として教育にあたる。後の白虎隊士らが在籍していた時期である。鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。
山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11… 山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家(津田流炮術)、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。 会津藩士で砲術指南役の山本権八(禄高は22石4人扶持)の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久。