大塚 瑠晏(おおつか るあん、2003年10月26日 - )… 大塚 瑠晏(おおつか るあん、2003年10月26日 - )は、栃木県栃木市出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。北海道日本ハムファイターズ所属。 栃木県鹿沼市生まれで栃木市出身.鹿沼市立永野小学校1年時からあわのボーイズで軟式野球を始め、小学4年時に地元の少年団が合併するのを機に兄が所属する小山ボーイズに加入したが当時の自宅は後述の店の近くで、練習場までは栃木駅までバスで約40分、電車を2駅乗り、駅から自転車で30分。乗り換え時間を含めると片道2時間超であった。帰りは寝過ごして桐生駅まで行ったこともあるが、両親はあえて迎えに行かず駅員さんに帰る方法を聞きなさいと諭した。小5年のとき、兄の高校進学のため、一家で栃木市内に転居し栃木南小に転入、栃木南中卒業。
仲三 優太(なかみ ゆうた、本名:仲三河 優太〈なかみがわ … 仲三 優太(なかみ ゆうた、本名:仲三河 優太〈なかみがわ ゆうた〉、2002年10月22日 - )は、栃木県栃木市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。埼玉西武ライオンズ所属。 小学校2年生から大平東クラブで軟式野球を始める。栃木市立大平中学校時代は小山ボーイズでは投手としてジャイアンツカップで準優勝に貢献し、U-15ワールドカップに出場した。U-15日本代表のチームメイトには後に西武で同期入団となる山村崇嘉がいた。 大阪桐蔭高等学校では投手として入部し、1年からベンチ入り。次期エース候補としても期待されていたが1年夏から右肩痛に悩まされ、3年から外野手となる。3年春には第92回選抜高等学校野球大会への出場が決まっていたが、新型コロナウイルスの影響で大会が中止となった。
板倉 寛樹(いたくら ひろき、1990年9月8日 - )は、… 板倉 寛樹(いたくら ひろき、1990年9月8日 - )は、栃木県栃木市出身の日本のプロ野球選手(外野手)、野球指導者。右投左打。日米の複数の独立リーグ球団でプレーした。 佐野日本大学高等学校を経て日本大学に進むが、中退した。2010年にベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)のトライアウトを受験し、信濃グランセローズから12月のリーグドラフトで指名を受ける。 2011年は43試合に出場して打率.271の成績だった。翌2012年のシーズン開幕後に信濃を退団、5月21日に同じリーグの富山サンダーバーズ(現・富山GRNサンダーバーズ)に入団した。 2013年シーズン開幕前にアメリカ合衆国のテキサス・ウィンターリーグでテキサス・サンダー(英語版)に派遣され、首位打者を獲得した。
澤村 拓一(さわむら ひろかず、1988年4月3日 - )は… 澤村 拓一(さわむら ひろかず、1988年4月3日 - )は、栃木県栃木市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 投手として読売ジャイアンツでは4度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献。個人ではNPBで最多セーブ投手の個人タイトルを1度獲得した他、新人王を獲得している。 メディアによっては新字体の沢村 拓一の表記も見られる。 小学2年時に野球を始め、6年から投手を務める。この頃から自己主張が強かったという。栃木市立東陽中学校でも野球部に所属して県大会に出場。佐野日大高校時代は3番手投手として夏を迎え、登板機会がないまま栃木大会決勝で敗退。高校の先輩で、中央大学OBでもある会田有志の勧めもあって中央大学硬式野球部を受験した。
寺内 崇幸(てらうち たかゆき、1983年5月27日 - )… 寺内 崇幸(てらうち たかゆき、1983年5月27日 - )は、栃木県栃木市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者、プロ野球コーチ。右投右打。現在は東京ヤクルトスワローズで内野守備走塁コーチを務める。 栃木県立栃木工業高等学校からJR東日本入り。都市対抗野球大会ではJR東日本硬式野球部の4強入りに貢献、インターコンチネンタル杯では日本代表入り。 2006年の大学生・社会人ドラフト会議において読売ジャイアンツから6巡目指名を受け入団。背番号は「69」。 2007年の春季キャンプで、金刃憲人・上野貴久・円谷英俊と共に、球団としては4年ぶりの新人一軍スタート。開幕後は二軍で経験を積む。 2008年から、背番号を2006年まで大西崇之が背負った「00」に変更。
渡辺 俊介(わたなべ しゅんすけ、本名:渡邊 俊介(読み同じ… 渡辺 俊介(わたなべ しゅんすけ、本名:渡邊 俊介(読み同じ)、1976年8月27日 - )は、栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)出身の元プロ野球選手(投手)。 世界一低いと言われるアンダースローが特徴で、通称は「ミスターサブマリン」。2000年代のNPBを代表するアンダースロー投手として一般に認知されている。 社会人野球の新日本製鐵君津を経て、2001年から2013年までNPBの千葉ロッテマリーンズに所属。2014年・2015年には独立リーグのランカスター・バーンストーマーズやベネズエラのウィンターリーグであるリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルでのプレーを経験した。 2015年12月1日からは、新日鐵君津の後継チーム・新日鐵住金かずさマジックにコーチ兼投手として在籍し、2016年からは、同チームで現役生活を続けながら、野球解説者としても活動した。
麦倉 洋一(むぎくら よういち、1971年7月29日 - )… 麦倉 洋一(むぎくら よういち、1971年7月29日 - )は、栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者。 中学時代にテレビ番組『ビートたけしのスポーツ大将』に出演したけし軍団と対決し1安打完封、ビートたけしに「君はプロでやっていける」と絶賛された。 佐野日大高では3年時に48イニング連続無失点や、栃木県予選では全試合無失点を記録し、同校初となる夏の甲子園への出場に貢献し、球威のあるストレートがプロ野球のスカウトの注目を浴びた。甲子園の大会の初戦は開会式直後の開幕戦であり、その試合で打ってはその試合唯一の得点となる決勝本塁打、投げては完封勝利を挙げ、1-0で近大福山高に勝利した。
中野 佐資(なかの さとる、1963年1月7日 - )は、栃… 中野 佐資(なかの さとる、1963年1月7日 - )は、栃木県栃木市出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、野球指導者。 国学院栃木高校ではエースとして2年秋の県大会で優勝したが関東大会は初戦となる準々決勝で東農大二高の高仁秀治と投げ合って敗退。三菱重工横浜入社当時は投手。のちに肩を壊した影響で野手に転向し、主に一塁・右翼を守る。 1984年の都市対抗に三菱自動車川崎の補強選手として出場。2試合連続本塁打を放つが、準々決勝で日本楽器に敗退。 1985年の第13回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、同年の都市対抗でも日本石油に補強され活躍。 同年のドラフト会議で、阪神から2位指名を受け外野手として入団。
松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 19… 松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 1992年7月1日)は栃木県出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 栃木商業高等学校では甲子園には出場できなかった。高校同期に宮下陽吾投手(国鉄)がいる。卒業後は立教大学へ進学。エースとして活躍するが、東京六大学野球リーグでは当時法大、慶大が二強として争い、優勝には届かなかった。リーグ通算43試合登板、20勝12敗、防御率1.27、99奪三振。大学同期に土井正三、山口富士雄(中退)、森本潔(中退)がいる。 大学を中退し1964年に阪急に入団。大型右腕投手として期待され、1965年には6試合に先発するが結果を残せず、その後は中継ぎとして起用される。
三富 恒雄(みとみ つねお、1920年8月14日 - 200… 三富 恒雄(みとみ つねお、1920年8月14日 - 2005年2月9日)は、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)出身のプロ野球選手(投手)。 栃木商業から社会人野球の太田雄飛に入社(法政大学中退との情報もあるが、間違いである)。1939年の都市対抗にも出場し、明治神宮大会で優勝も果たしている。1940年翼軍に入団。1942年暮れに応召される。1947年に金星スターズでプロ野球に復帰。1949年には中日ドラゴンズへ移籍し、1951年に12勝をマークし、この年はオールスターゲームに出場した。1954年に現役引退。引退後は、中部日本放送で野球解説者を務めた。当時としては珍しい左のサイドスローからシンカー、カーブやシュートを武器としていた。