熊澤 とおる(くまざわ とおる、1973年9月7日 - )は… 熊澤 とおる(くまざわ とおる、1973年9月7日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(外野手)。 戸籍上の名前は平仮名の「とおる」であったが、ドラフト会議直前に「熊澤 当緒琉」の字を当て、選手時代はその名前を名乗った。 所沢商高時代に通算52本塁打を記録。「超高校級」と騒がれ、1991年度ドラフト会議にて西武ライオンズから3位指名を受けて入団するも、1998年に現役を引退するまでの7年間で一軍出場はなかった。 高校の同期生には小畑幸司がいた。 引退後は同球団の二軍の用具係兼サブマネージャーを担当。独学の運動動作やトレーニング方法を松井稼頭央に教えた。その結果松井に本塁打が飛び出し、二人の関係はより密になっていった。
三好 正晴(みよし まさはる、1973年8月30日 - )は… 三好 正晴(みよし まさはる、1973年8月30日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(投手)。 埼玉県立川口工業高等学校では1年夏の県大会準決勝で2学年上のエース・北原泰二の後を受けて登板した。2年秋の県大会決勝で2番手として登板するが延長15回の末に敗れる。3年夏は県大会の武南高戦でノーヒットノーランを達成。1991年のドラフト5位で読売ジャイアンツに入団。 一軍公式戦出場のないまま、内野手に転向した1993年限りで引退。 引退後は川口リトルシニアでコーチを務める。
小畑 幸司(おばた こうじ、1973年7月23日 - )は、… 小畑 幸司(おばた こうじ、1973年7月23日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(捕手)。 所沢商業高時代は高校通算35本塁打を放つ。1991年夏の埼玉大会は4回戦で敗退。高校の同期には熊澤とおるがいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから7位指名を受け入団。 1993年に一軍初出場を果たし、さらに同年に10代にして初のスタメン出場を果たす。広島球団では磯村嘉孝まで10代捕手のスタメン出場が19年程度もなかった。達川光男の後継者として期待されるが、その後は西山秀二や瀬戸輝信などの台頭でスタメンを確保できなかった。 1997年にはフルシーズンで一軍ベンチ入りができていたが、出場試合数は僅か17だった。
山田 潤(やまだ じゅん、1971年8月30日 - )は、埼… 山田 潤(やまだ じゅん、1971年8月30日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 城西大城西高から朝日大学に進学。東海地区大学野球連盟に加盟する同校の硬式野球部では、通算16本塁打で首位打者に3回輝き、4年秋は三冠王を獲得するなど活躍を見せた。4年の大学選手権では本塁打を放つ。 1993年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受けて入団。大学及び所属連盟初のプロ野球選手となった。右の大砲候補として期待された。 1996年に一軍初出場。 1997年の対ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、同年シーズン終了時点で一軍通算4試合の出場しかなかった山田が第1戦で7番・レフトでスタメンに抜擢される。
松元 繁(まつもと しげる、1971年5月30日 - )は、… 松元 繁(まつもと しげる、1971年5月30日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 朝霞高では1年秋に野球部に中途入部したが、その後は川越工業高の佐藤剛と並び、県下有数の投手として名を馳せた。2年秋の県大会では3試合5本塁打を記録し、打者としても注目された。3年春は県大会で3完封、夏は故障により4番打者で登板機会がなかったにもかかわらず、1989年のドラフト会議では広島東洋カープとヤクルトスワローズに重複5位指名され、抽選の末ヤクルトが交渉権を獲得し入団。同期入団には古田敦也や西村龍次がいた。 本格派の投手として期待されたが、2年目に腎臓疾患で重大故障認定選手となり(練習生制度廃止による1992年限定の臨時措置。
米倉 忠信(よねくら ただのぶ、1968年8月22日 - )… 米倉 忠信(よねくら ただのぶ、1968年8月22日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)・ブルペン捕手。 狭山ヶ丘高校から東都大学野球リーグに所属する拓殖大学に進学。大学時代は控え捕手、外野手で、4年間のリーグ戦では2部で1打席しか立っておらず完全に無名の存在であった。 大学4年次に思い出作りとして、高校時代に続いて読売ジャイアンツの入団テストを受験したが、打撃を評価されテストに合格し、1989年のドラフト外で入団した。 同年のジャイアンツのドラフト外入団選手には柏田貴史、出口幸夫らがいた。なお拓大出身者としては、中尾明生、山本良材に続いて3人目のプロ野球選手となった。 当時のジャイアンツ捕手陣は、山倉和博の衰えが顕著となり、また故障がちであった中尾孝義のバックアップとして村田真一が台頭し、それらに次ぐ若手捕手陣が群雄割拠の様相を呈していた時期でもあったが、アマチュア時代の実績が皆無であった米倉は2軍でも出場機会はほとんど与えられず、1991年シーズン後に入団から僅か2年で戦力外通告を受けた。