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大野 貴洋(おおの たかひろ、1978年10月18日 - )… 大野 貴洋(おおの たかひろ、1978年10月18日 - )は、埼玉県飯能市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 中学時代は日高ボーイズでプレー。所沢商高野球部では1年生から三塁手のレギュラーとなり、高校通算71本塁打を記録。これは当時歴代13位の記録であり、高校時代は正真正銘のスラッガーであった。 1996年のドラフト会議で横浜ベイスターズから3位指名され入団。左の長距離砲候補として期待されたが、二軍でも5年間で通算7本塁打とプロの壁に苦しみ、一軍出場のないまま2001年限りで退団。 2002年からは社会人野球の東京ガスに加入してプレーを継続。2008年限りで退部し現役を引退した。 その後はプロ・アマの経験や人脈を基に多くの理論・理論を収集して学童野球指導に携わり、少年学童野球チームの「世田谷SKバッグス」で監督を務めた。
高橋 和幸(たかはし かずゆき、1977年4月27日 - )… 高橋 和幸(たかはし かずゆき、1977年4月27日 - )は、埼玉県ふじみ野市出身の元プロ野球選手(外野手)。 所沢商高では投手兼外野手として高校通算37本塁打を記録した。 1995年のドラフト5位で福岡ダイエーホークスに入団。投手としてドラフト指名されるも、入団後すぐに外野手に専念。 2002年にプロ入り7年目にして初めて一軍に昇格した。8月27日には一軍初出場を果たす。9月にはスタメン出場する機会も得て、シーズン最終戦であった10月12日の対近鉄戦では、延長11回裏に岡本晃からサヨナラ安打を放った。この年は21試合に出場し、打率.339のハイアベレージを叩き出した。 2003年は村松有人・ペドロ・バルデス・柴原洋ら外野陣が軒並み好調であり、なかなか出番が得られなかった。
中山 光久(なかやま みつひさ、1975年10月16日 - … 中山 光久(なかやま みつひさ、1975年10月16日 - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。現役引退後は日本ハム球団でブルペン捕手を務め、2018年より球団スタッフに配属された。 所沢商業高では当初捕手ながらも2年から投手となり秋の県大会準決勝で延長13回を投げるが敗退、3年夏は県大会4試合で3本塁打を放つ。1993年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムに指名された。高校では途中から投手兼四番打者であったが、入団後に捕手に転向したというプロではあまり見られない選手。 プロでは、二軍でもほとんど試合出場のないまま、2001年オフに任意引退扱いで現役生活を終えた。 引退後はそのまま日本ハムのブルペン捕手となったが、2002年の日本ハムは田口昌徳の移籍や、当時の正捕手・野口寿浩などの故障によって二軍の捕手が足りなくなったため、中山の現役復帰が検討された。
熊澤 とおる(くまざわ とおる、1973年9月7日 - )は… 熊澤 とおる(くまざわ とおる、1973年9月7日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(外野手)。 戸籍上の名前は平仮名の「とおる」であったが、ドラフト会議直前に「熊澤 当緒琉」の字を当て、選手時代はその名前を名乗った。 所沢商高時代に通算52本塁打を記録。「超高校級」と騒がれ、1991年度ドラフト会議にて西武ライオンズから3位指名を受けて入団するも、1998年に現役を引退するまでの7年間で一軍出場はなかった。 高校の同期生には小畑幸司がいた。 引退後は同球団の二軍の用具係兼サブマネージャーを担当。独学の運動動作やトレーニング方法を松井稼頭央に教えた。その結果松井に本塁打が飛び出し、二人の関係はより密になっていった。
小畑 幸司(おばた こうじ、1973年7月23日 - )は、… 小畑 幸司(おばた こうじ、1973年7月23日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(捕手)。 所沢商業高時代は高校通算35本塁打を放つ。1991年夏の埼玉大会は4回戦で敗退。高校の同期には熊澤とおるがいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから7位指名を受け入団。 1993年に一軍初出場を果たし、さらに同年に10代にして初のスタメン出場を果たす。広島球団では磯村嘉孝まで10代捕手のスタメン出場が19年程度もなかった。達川光男の後継者として期待されるが、その後は西山秀二や瀬戸輝信などの台頭でスタメンを確保できなかった。 1997年にはフルシーズンで一軍ベンチ入りができていたが、出場試合数は僅か17だった。
斉藤 貢(さいとう みつぐ、1970年4月26日 - )は、… 斉藤 貢(さいとう みつぐ、1970年4月26日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。1996年の登録名は「ミツグ」。 所沢商業高校卒業後、明治大学に進学するも半年で中退。警備員等約20種類のアルバイトを経てプリンスホテルに入社。1992年の日本選手権では初戦先発で勝利、2回戦では先発・武藤潤一郎の後に3回無失点を抑えて逆転勝利を呼び込むなど準優勝に貢献。1994年の東京スポニチ大会で優秀選手、同年の都市対抗野球には東芝府中の補強選手としてベスト8に貢献。同年秋の日本選手権では初戦から2試合連続完投勝利して、準々決勝では9回途中から登板したが逆転サヨナラ負け。1994年のプロ野球ドラフト会議にて福岡ダイエーホークスから2位指名され入団した。
前田 俊郎(まえだ としろう、1965年7月28日 - )は… 前田 俊郎(まえだ としろう、1965年7月28日 - )は、埼玉県飯能市出身の元プロ野球選手(内野手)。引退後は埼玉西武ライオンズの二軍守備走塁コーチを務めた。プロ入り前の名は「前田東郎」。 所沢商業高時代の3年夏に出場した第65回全国高等学校野球選手権大会では、初戦のPL学園高戦で桑田真澄と投げ合い、桑田からは本塁打を打ったが、加藤正樹に本塁打を打たれるなどして2-6で敗れた。 高校卒業後は、社会人野球の新日本製鐵君津を経て、1987年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団。 しかし、一軍出場がないまま1992年に現役を引退した。 その後はスカウトとして球団に残り、2009年の1シーズンのみ二軍守備走塁コーチとして現場に復帰したが、翌2010年からはフロント入りしている。
串原 泰夫(くしはら やすお、1963年4月13日 - )は… 串原 泰夫(くしはら やすお、1963年4月13日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 所沢商業高では3年夏の埼玉県大会で準々決勝まで進出するも古川慎一がいた春日部工業に敗れた。 1981年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受け入団。 1984年と1985年はアメリカ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学した。プロ5年目の1986年に1試合のみ一軍登板を果たすが、以降は一軍での登板はなく1989年限りで現役を引退。 引退後は西武園ゆうえんちに勤務している。
山崎 賢一(やまざき けんいち、1962年7月20日 - )… 山崎 賢一(やまざき けんいち、1962年7月20日 - )は、埼玉県志木市出身(東京都生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 「こけしバット」といわれるグリップエンドがこけしの頭のような形をした、極端にバットを短くグリップすることが出来るバットを使用して活躍した。 所沢商業では3年次の1980年、夏の甲子園埼玉大会準々決勝で敗退。 監督に勧められて地元の西武ライオンズと横浜大洋ホエールズの入団テストを受け、西武は不合格であった一方、大洋の首脳陣に打撃を評価されて、オフにドラフト外で大洋に入団。背番号は46。 入団後、1年目の1981年から4年間は二軍生活を送り、二軍でも代打要員で、2年目の1982年はイースタン・リーグでチームは優勝しているが、28試合で打率.200と優勝に貢献したとは言い難かった。