赤井田 真希(あかいだ まき、1978年12月23日 - )… 赤井田 真希(あかいだ まき、1978年12月23日 - )は、日本の実業家。株式会社ユニクロ日本事業最高経営責任者(CEO)、株式会社ファーストリテイリング グループ執行役員。 新潟県阿賀野市出身。就職活動では、小学校から憧れだった英語の教師を目指し、母校の中学校で教育実習を行ったが、「人を育てる仕事はほかにもある」と考えを変えた。「自分の成長が実感できる勢いある会社へ」と、当時フリースの拡販や店舗網の拡大で急成長を遂げていたファーストリテイリングへ入社した。入社後、「頑張れば最短半年で店長になれる」と聞き、寝食を惜しんで猛勉強して、半年で店長試験に合格。群馬県、北海道での店長を経て、東京・銀座や中国・上海など国内外の大型店で成果を上げた。
渡邊 栄一(わたなべ えいかず、1933年2月5日 - 20… 渡邊 栄一(わたなべ えいかず、1933年2月5日 - 2016年11月29日)は、日本の実業家。ヤスダヨーグルト前社長。 新潟県北蒲原郡安田村(現阿賀野市)出身。 新潟県立水原農学校卒業後、農業に従事。 1961年、1頭の牛を購入して酪農家としての人生を歩み始める。1987年4月、志を同じくする酪農家たちと渡邊含めた9人で安田牛乳加工処理組合を設立し、初代責任者に就任する。1989年8月、同組合を有限会社ヤスダヨーグルトへと改組する。1995年、同社初代社長に就任する。 2016年11月29日、死去(享年84)。
斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 … 斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家。新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。 新潟県北蒲原郡安田町(現・阿賀野市)出身。新潟中学校、旧制新潟高等学校を卒業。東京帝国大学法学部(東京大学)の入試に失敗、神戸商業大学に入学するも、翌年、東京帝大経済学部に入学。 経済学部を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)入社。のち、日本製鐵に移り、八幡製鐵専務、新日鉄専務、副社長などを経て社長。2002年4月22日、心不全のため死去。90歳没。 2002年の死去に伴う遺産相続において、長男(当時、新日本製鉄常務)が相続財産の一部である約16億3000万円を申告せず、相続税約9億8000万円を脱税したとして、2005年8月に相続税法違反の罪で在宅起訴された。
2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)… 2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)4月27日 - 1935年(昭和10年)6月28日)は、明治後期から昭和初期の銀行家、農業経営者。貴族院多額納税者議員、勲四等。 新潟県笹岡村(現・阿賀野市)の地主の家系で代々五十嵐甚蔵を名乗った。初名は直彦。1894年(明治27年)に慶應義塾を卒業後、1908年(明治41年)に新発田銀行取締役、同頭取、第四銀行取締役、榎並銅鉄株式会社取締役、新発田倉庫監査役、新潟新聞監査役、新潟県地主協会会長等となる。 品川弥二郎にじかに小作奨励を勧められ、1893年(明治26年)から蔵米品評会を実施した。 1925年(大正14年)新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - … 前田 武四郎(まえだ たけしろう、1867年5月14日 - 1931年1月21日)は、日本の電気技術者、実業家。日本電気の共同創業者として知られる。 慶応3年4月11日(グレゴリオ暦1867年5月14日)、前田武平の次男として越後国北蒲原郡堀越村大野地(現阿賀野市)で生まれた。実家は裕福な農家であったが前田は郷里で農業を続けることを望まず、1882年(明治15年)に親に無断で上京し、中村正直の同人社に入塾。親もやがて軟化して遊学を許し、前田は2年後に学業を終えて一度帰郷するが、給費付きの学校である電信修技学校のことを知り、1884年(明治17年)に再び上京、入学した。1887年(明治20年)2月に同校を卒業すると逓信省に入省した。
田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保… 田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保10年9月)- 1909年(明治42年)9月19日)は、幕末の村役人、明治期の政治家、実業家。衆議院議員。号・晴雲。 越後国蒲原郡大野地村(新潟県蒲原郡大野地村、北蒲原郡大野地村、堀越村大野地、水原町を経て現阿賀野市大野地)で、庄屋を務める田辺家に生まれた。大野地村庄屋を務めた。 明治維新後、新潟県地券下掛、第二大区小二区戸長、副大区長、地租改正実地検査顧問などを務めた。 政治活動に熱心で立憲改進党に所属し、1888年(明治21年)新潟県会議員に選出され、同常置委員、同副議長を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第2区、立憲改進党)で当選し、その後、進歩党に所属し衆議院議員に1期在任した。