小口 利幸(おぐち としゆき、1951年(昭和26年)8月2… 小口 利幸(おぐち としゆき、1951年(昭和26年)8月24日 - )は日本の政治家。塩尻市長(第6代)。 長野県塩尻市出身。1976年慶應義塾大学工学部卒業。セイコーエプソンに入社、設計課長を務める。1998年に退社した後は塩尻市議会議員を2期務め、2002年に市長に初当選。平成の大合併では楢川村との合併を実現した。また、JR塩尻駅を中心とした市街地の活性化に取り組み、基本計画(2008年11月11日承認)を策定、2010年には旧塩尻市立図書館を移転、新築した市民交流センター「えんぱーく」の開業を実現した。2022年1月14日、6選不出馬を表明した。2023年11月3日、秋の叙勲で旭日中綬章を受章。
下平 正一(しもだいら しょういち、1918年1月10日 -… 下平 正一(しもだいら しょういち、1918年1月10日 - 1995年8月25日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(10期)。 長野県塩尻市出身。長野県東筑摩農学校(現:長野県塩尻志学館高等学校)中退。国鉄労働組合長野地方本部委員長や塩尻町議などを歴任し、1955年の衆院選に左派社会党から立候補しトップで初当選、続く1958年の衆院選でも、社会党を脱党して立候補・当選した小沢貞孝との革新分裂選挙となったが連続当選。以後小沢が民社党へと移った後も同じ選挙区で相争う様になるが、最終的に10回連続当選した。60年安保闘争では国会内に警官隊を導入した際に負傷する。 1969年8月9日、愛知県内を自動車で走行中に後部から追突される交通事故に遭遇。
小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月2… 小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月20日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、昭和期の実業家、政治家。塩尻市長(初代)。位階は正六位。勲四等旭日小綬章。 長野県東筑摩郡塩尻村(塩尻町を経て現塩尻市)で生まれた。1922年(大正11年)旧制松本商業学校5年次中途退学。家業の運送業に従事。1928年(昭和3年)から鉄道小運送業に従事(美勢運送合資会社勤務)し、1941年(昭和16年)から貨物自動車業を営む(塩尻陸運取締役)。1944年(昭和19年)5月、中信興業代表取締役に就任。1946年(昭和21年)に小松組(信州急送などを経て現信州名鉄運輸)を創業し、長野県内におけるトラック運送業の先駆けとなる。
花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月… 花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月22日 - 1978年(昭和53年)8月20日)は、日本の農業技術者、政治家。長野県東筑摩郡宗賀村長(3期)、長野県塩尻市議会議員、長野県塩尻市長(第3代、2期)を歴任した。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県東筑摩郡宗賀村本山(現・塩尻市)生まれ。1920年(大正9年)3月、東筑摩郡立農学校を卒業。小学校代用教員、村立宗賀実業補習学校助教諭を務めた後、1932年(昭和7年)に穀物検査員として長野県庁に勤務し、同県農産物検査技術補、農産物検査監督員、食糧検査所支所長などを務め、後に食糧事務所長となる。1945年(昭和20年)の終戦後は、GHQ軍政部と折衝して、長野県内の窮迫した食糧事情の好転に一役買った。
森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久… 森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年4月15日(文久2年3月17日) - 1945年(昭和20年)2月9日)は、日本の政治家、弁護士、衆議院議員(1期)。 文久2年(1862年)、信濃国筑摩郡郷原宿(現在の長野県塩尻市広丘郷原)にて赤羽弥一(あかはねやいち)の三男として出生。生家の赤羽家は郷原宿の問屋場で、郵便制度発足後問屋業を継承して郵便物取扱所その後五等郵便局、三等郵便局となり現在は郷原簡易郵便局となっている。現在も問屋の屋号で呼ばれている。明治期のジャーナリスト、社会主義思想家の赤羽一(巌穴)は、問屋(上問屋)の赤羽家とともに郷原宿で交代で問屋をつとめた下問屋の出身で、儀文治の14歳年下の甥にあたる。
川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 … 川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 - 1926年〈大正15年〉4月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡苅谷原村(現長野県松本市)生まれ。中山道塩尻宿(同県塩尻市)の脇本陣川上家の養子となる。慶應義塾で学んだ。1885年(明治18年)に塩尻町ほか11ヶ村の戸長に任命され、1891年(明治24年)長野県会議員となった。同年12月に発足した鉄道期成同盟会では評議員となり、篠ノ井線、中央本線敷設問題に尽力した。1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙に長野第4区から立候補したが、この時は落選している。1894年(明治27年)の第3回総選挙に再び長野第4区から立候補して当選した。