雄太(ゆうだい、本名:川井 進〈かわい すすむ〉、1980年… 雄太(ゆうだい、本名:川井 進〈かわい すすむ〉、1980年6月17日 - )は、長野県佐久市出身の日本の元プロ野球選手(投手)。 プロ入りから2008年までの登録名は本名と同じ「川井 進」であったが、2009年に「川井 雄太」に改め、さらに2012年からは「雄太」としていた。 上田西高等学校では2年秋に北信越大会へ進み、準々決勝では延長11回を完投勝利するが準決勝では富樫和大 - 加藤健のバッテリーを擁する新発田農に6回コールド負け、3年夏は県大会ベスト8。進学した大東文化大学では2年春に主戦となるもそのシーズンで首都大学リーグ2部に降格し、4年秋の入替戦で自身が2勝して復帰に貢献。大学卒業後は日本通運へ入社し、変則左腕として都市対抗野球に2年連続で出場し救援登板、その活躍が即戦力と評価され、2004年のドラフト会議において中日ドラゴンズから4巡目で指名され、入団。
加藤 貴昭(かとう たかあき、1974年5月1日 - )は、… 加藤 貴昭(かとう たかあき、1974年5月1日 - )は、日本の人間工学者、スポーツ心理学者、元野球選手(捕手)。慶應義塾大学環境情報学部教授、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科委員、慶應義塾大学SFC研究所ベースボール・ラボ代表。 学生時代は強打の捕手として野球をプレー。野沢北高校では4番・捕手として主将を務め、3年夏の県大会4強に貢献。高校通算25本塁打。早慶戦に憧れを抱き、慶應義塾大学環境情報学部にAO入試を経て入学した。野球部では2年秋からベンチ入りし、3年秋には3番・左翼手としてレギュラーの座をつかんだ。髙木大成が卒業した4年時には元のポジションである正捕手となり、主将も務めた。
桃井 進(ももい すすむ、1959年8月18日 - )は、長… 桃井 進(ももい すすむ、1959年8月18日 - )は、長野県佐久市出身の元プロ野球選手、元プロ野球審判員。元長野県議会議員。 佐久市立佐久東中学校から1975年に丸子実業高に入学。4番・捕手として1976年の秋季北信越大会で当時小松辰雄(のち中日)がエースの星稜高等学校と決勝で対するも敗退。1977年の選抜出場の原動力となった。夏の選手権出場の期待もかけられたが長野県大会決勝で松商学園に敗れた。 高校卒業後、社会人野球の電電信越では都市対抗野球に出場、1980年のドラフト4位指名を受けロッテに入団するが、出場機会に恵まれないまま1988年引退。ブルペン捕手としてチームに残った。 1989年オフ、パ・リーグ審判部長となる村田康一の誘いを受け、パ・リーグの審判テストに応募し合格。
荒川 堯(あらかわ たかし、1947年5月3日 - )は、長… 荒川 堯(あらかわ たかし、1947年5月3日 - )は、長野県北佐久郡(現・佐久市)出身の元プロ野球選手(内野手)・実業家。右投右打。 プロ野球ドラフト会議での入団拒否をきっかけに、後年のルール改正にもつながる荒川事件の当事者となった。 1947年に長野県北佐久郡岩村田町(のちに近村との合併で浅間町、現:佐久市)の映画館経営者の家に生まれる。幼い頃から母親の実家で田植えの手伝いをしていた。 4歳のころから野球を始め、浅間中学校時代には「長野に出澤あり」と内外で知られるほどの存在となっていた。また通知表はオール5で、両親が常々「東京大学に行かせたい」と言うほど勉学面でも優秀だった。中学3年の時、岩村田町の近くに来ていた読売ジャイアンツコーチの荒川博が実の両親を介して堯を呼び、自らの前で素振り等をさせた。
吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 - 2… 吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 - 2025年1月2日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。1967年までの登録名は吉沢 勝。 実家は長野県で農家を営んでおり、親族がいたことから下宿して進んだ北海高等学校では2年生の時、控え投手として1962年の春夏の甲子園に出場。春の選抜では1回戦で御所工に敗退、吉沢の登板はなかった。夏の選手権では準々決勝に進み、伊藤久敏投手を擁する久留米商と対戦。先発した3年生エース松谷栄司が5回に負傷退場し、吉沢は急遽リリーフに立つが、9回に3点を取られ逆転負け。苦い甲子園デビューとなった。同年の岡山国体では1回戦で先発。作新学院の八木沢荘六、加藤斌に投げ勝ち完封勝利を飾る。
小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年… 小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年不明)は、長野県佐久市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 岩村田中学校ではエースピッチャーとして活躍。東京鉄道局で外野手に転向した。1937年に名古屋金鯱軍へ入団。同姓の小林利蔵と共にクリーンアップを担い、チームを牽引している。また、1937年春季リーグと1938年秋季リーグには規定打席に到達しながら、死球の数が四球の数を上回るという珍記録を残した(2007年に大村直之が記録するまで史上唯一の達成者だった)。1940年には翼軍へ移籍。そこでもチームの主軸を担い、キャリアハイである4本塁打49打点を記録するも同年に応召された。 戦後は藤倉電線で4番打者として活躍し、都市対抗野球では1試合7打点の記録も残している。