佐々木 泰(ささき たい、2002年12月24日 - )は、… 佐々木 泰(ささき たい、2002年12月24日 - )は、岐阜県大垣市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。広島東洋カープ所属。 大垣市立小野小学校で1年生の時に野球を始め、大垣市立東中学校在学時は硬式野球のクラブチームである岐阜ボーイズでプレーしていた。 岐阜県立岐阜商業高等学校に進学し、1年夏から4番を務めた。3年春の第92回選抜高等学校野球大会への出場が決定していたが、新型コロナウイルスの影響により同年の公式戦が全て中止となった。その後、2020年甲子園高校野球交流試合で明豊と対戦し、9回にソロ本塁打を放った。高校通算41本塁打。1学年下に高木翔斗がいた。 高校卒業後は青山学院大学に進学。
北村 恵吾(きたむら けいご、2000年12月18日 - )… 北村 恵吾(きたむら けいご、2000年12月18日 - )は、岐阜県大垣市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。東京ヤクルトスワローズ所属。 岐阜県の大垣市立北小学校2年生のときに野球を始める。きっかけは、たまたま小学校の前を通った時に地元の少年野球チームである大垣北クラブを見てやりたいと思い、練習に参加させてもらった所、楽しかったために始めた。小学生の頃は主に「4番・投手」だった。 大垣市立北中学校進学後は、西濃ボーイズに所属した。中学時代には根尾昂と岐阜県選抜チームでチームメイトにもなった。 近江高等学校では1年生の春からベンチ入り。1年夏から「4番・左翼手」を務めた。その夏の甲子園では1回戦敗退。
大野 奨太(おおの しょうた、1987年1月13日 - )は… 大野 奨太(おおの しょうた、1987年1月13日 - )は、岐阜県大垣市出身の元プロ野球選手(捕手)、コーチ。右投右打。 北海道日本ハムファイターズ投手の宮西尚生は、互いの夫人が双子姉妹のため義兄弟にあたる。 大垣市立荒崎小学校時代は岐阜県の荒崎野球少年団に所属し、捕手・投手・三塁手をこなす。大垣市立西部中学校時代は西濃ボーイズで三塁手としてプレーし、岐阜県選抜にも選ばれた。中学時代の夢は県内屈指の名門校である県立岐阜商業高校でプレーすることだったが、岐阜県選抜のメンバーの多くが同校に進学を考えるなか、あえて岐阜総合学園高校に進学した。 高校時代は1年生の夏から三塁手のレギュラーに定着。秋にチームの正捕手が肩を壊したため捕手へ転向した。
石原 慶幸(いしはら よしゆき、1979年9月7日 - )は… 石原 慶幸(いしはら よしゆき、1979年9月7日 - )は、広島東洋カープに所属するプロ野球選手(捕手)。岐阜県安八郡墨俣町(現・大垣市)出身。2010年からカープの選手会長に就任した。
山田 博士(やまだ ひろし、本名:山田 洋(読み同じ)、19… 山田 博士(やまだ ひろし、本名:山田 洋(読み同じ)、1973年6月17日 - )は、岐阜県大垣市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 実兄はヤクルトスワローズなどでプレーした山田勉。 大垣工業高時代は2年時からエースの座に就く。3年の夏には大会屈指の好投手として注目を集めた。初戦は完封勝利を収めたものの第二戦で市岐阜商に味方のエラーから失点して自責点0で高校野球を終えた。高校卒業後は、社会人野球の日本通運名古屋に入ると都市対抗野球へチームを18年ぶりの出場に貢献。 1994年、中日ドラゴンズを逆指名し、同年のドラフト2位で入団。1997年8月19日の対広島東洋カープ戦で初登板、同年8月22日の対阪神タイガース戦で初勝利をあげる。
篠田 淳(しのだ じゅん、1970年8月24日 - )は、岐… 篠田 淳(しのだ じゅん、1970年8月24日 - )は、岐阜県大垣市出身の元プロ野球選手(投手)。 大垣商業高では2年秋に東海大会出場も準々決勝で東邦高の1年生エース山田喜久夫に完封負け。3年次の1988年に、タテに割れる大きなカーブを武器にエースで4番として夏の甲子園に出場に貢献する。本戦でも、1回戦で古池拓一擁する坂出商業高、2回戦で京都西高を破り3回戦まで進出する。0-1で敗れはしたが3回戦の津久見高戦での川崎憲次郎との投げ合いはこの大会でも一二を争う名投手戦であった(篠田も自責点は0であり、奪われた1点は味方の失策によるものだった)。ちなみに同年の国体でも津久見高と対戦するが、2-4で敗れた。
高木 一巳(たかぎ かずみ、1941年1月9日 - )は、岐… 高木 一巳(たかぎ かずみ、1941年1月9日 - )は、岐阜県大垣市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。 大垣商業高等学校では、捕手として1959年夏の甲子園県予選を勝ち抜き三岐大会決勝に進出するが、鈴木正のいた松阪商に敗退し、甲子園出場はならなかった[要ページ番号]。 大型捕手として注目され、1960年に中日ドラゴンズに入団。しかし二軍暮らしが長く、1963年に野手転向。1964年は20試合に起用され、一塁手として先発出場も果たすが、その後はあまり出場機会に恵まれなかった。1966年から捕手に戻り、地味ながら控えをこなす。1972年限りで引退した。