松永 貴志(まつなが たかし、1986年1月27日 - )は… 松永 貴志(まつなが たかし、1986年1月27日 - )は、日本の作曲家、編曲家、ピアニストである。 兵庫県芦屋市出身。巨匠ハンク・ジョーンズに絶賛され、2003年5月、17歳でアルバム「TAKASHI」でメジャーデビュー。各種メディアにも多数取り上げられ、ベストセラーとなる。ジャズの名門、米ブルーノートレーベル70年の歴史上、最年少リーダー録音記録を樹立。 18歳で作曲・演奏したテレビ朝日系「報道ステーション」テーマ曲「オープン・マインド」で一躍注目を浴びる。第14回「出光音楽賞」受賞。ハービー・ハンコックやボビー・マクファーリン、ロン・カーターなど世界の大物アーティストや、岩城宏之と、ガーシュウィン「ラプソディ・イン・ブルー」で共演する。
名田 綾子(めいだ あやこ、1984年 - )は、兵庫県芦屋… 名田 綾子(めいだ あやこ、1984年 - )は、兵庫県芦屋市出身の日本の作曲家、編曲家、ピアニスト。ヤマハJOCスタッフ・創作講座講師。東京藝術大学非常勤講師。神奈川県横浜市在住。合唱作品、器楽作品の作編曲を中心に活動している。 音楽を始めたきっかけは幼稚園の頃に近所の音楽教室に通ったことから。兵庫県立西宮高等学校音楽科、東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。東京藝術大学大学院修士課程修了。作曲を長谷川京子、藤原嘉文、小鍛冶邦隆らに師事。ピアノを菅千種、林敦子らに師事。 世界各国の国家や愛唱歌を合唱により歌う「山田和樹 アンセムプロジェクト」(指揮:山田和樹、合唱:東京混声合唱団)において、様々な国の国歌の編曲に携わる。
広野 智章(ひろの ともあき、1974年8月5日 - )は、… 広野 智章(ひろの ともあき、1974年8月5日 - )は、ゲームミュージックの作曲家。コナミデジタルエンタテインメント所属。兵庫県芦屋市出身。 北川保昌、弓島隆子らと並んで、実況パワフルプロ野球シリーズや、パワプロクンポケットシリーズなどの多くの作品でサウンドスタッフをしている。 BEMANIシリーズにはゲームボーイ版pop'n musicにて初参加(後にアーケード版にアレンジ移植)し、後に「劇団レコード」名義にて楽曲制作へ参加する。猫叉Masterと同様に民族音楽風の楽曲を得意とし、合作も多い。なお、名義名の由来は自分が好きな「劇団」と「レコード」を足し合わせたものであるとコメントしている(BEMANI Backstage本人出演の回より)。
妹尾 武(せのお たけし、1969年12月26日 - )は、… 妹尾 武(せのお たけし、1969年12月26日 - )は、兵庫県芦屋市出身のピアニスト、作曲家。Senoo名義で活動を開始し、後に実名で活動する。 甲南中学校・高等学校を経て桐朋学園大学音楽学部卒業。平吉毅州に作曲を師事。好きな映画は「男はつらいよ」全48作を所持。その影響を受け自らのコンサート企画「港めぐりツアー」を毎年行っている。最も敬愛する音楽家はセルゲイ・ラフマニノフ。 1994年、大学在学中に作曲した「So Heavenly.」がサウンド&レコーディング・マガジン誌上での細野晴臣監修のオーディションにて優秀作に選出。1995年、同曲がコンピレーション・アルバム「ecole」(Epic/Sony Records)にSenoo名義で収録されたのを機にプロとしての活動を開始。
青山 シゲル(あおやま しげる、1967年7月1日 - )は… 青山 シゲル(あおやま しげる、1967年7月1日 - )は、日本の作曲家、編曲家、シンガーソングライター。兵庫県芦屋市出身、AB型。青山 繁(あおやま しげる)として2002年にデビューしたが2012年以降は青山シゲル名義で活動。 ピアノ講師の母、音楽好きの父、兄の影響で幼少より音楽に親しむ。学生時代は合唱団に所属し、浜田麻里の日本武道館公演、五木ひろしの新橋演舞場公演等に合唱団員として出演。2001年にギターと寝袋を抱え日本一周弾き語りの旅に出た後、TBS Entertainment Mothers で合格。2002年「夏の終わりに降る雨は」でCDデビュー、赤坂TBSホールでデビューライブを行う。
毛利 蔵人(もうり くろうど、1950年5月20日 - 19… 毛利 蔵人(もうり くろうど、1950年5月20日 - 1997年1月13日)は日本の作曲家。出生名は平井祥治。 兵庫県芦屋市に生まれる。生後1歳足らずで両親が離婚し養子に出されたが、大学受験で戸籍謄本を取り寄せるまでその事実を知らなかった。中学生の頃より独学でピアノと作曲を始めた。都立西高校に入学し、弦楽合奏クラブに入部。2~3ヶ月の独習でヴィオラやチェロを弾くようになる。同時に作曲への志向が強まった。京都大学受験に失敗し、高校卒業後は浪人生活に入ったものの、出生の事実を知ったことや受験失敗などの不運から精神を病んで入院し、結局進学することを諦めた。初め別宮貞雄に手紙を書いて作曲の教えを乞うも、別宮の提示した月謝を払えず断念し、次いで桐朋学園大学教授三善晃に月謝を払えぬことを予め詫びた上で教えを願い、三善からの紹介で桐朋学園大学図書館に勤めながら、1971年から翌年にかけて5、6回、三善晃の許で、習作の講評を受けつつオーケストレーションを学んだ。