佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年… 佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年(明治16年)2月22日 - 1973年(昭和48年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。本名・佐々井晁次郎。 兵庫県氷上郡、のちの葛野村(現丹波市)で生まれる。1909年神戸市バルモーア英学院高等部卒。卒業後は逓信書記官補、小学校教員、内務省社会局、中央教化団体連合会の各嘱託などを務める。その後、大日本党を組織し、主宰となり、引き続き同党をやまとむすびと改称し、主宰を務めた。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では兵庫5区から非推薦で立候補して当選する。同選挙区では1940年に衆議院で「支那事変処理中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)を行ったために議会を除名された斎藤隆夫も非推薦で立候補してトップ当選し、この選挙区では定員3名のうち2名が大政翼賛会の推薦を受けなかった非推薦の候補が当選した数少ない選挙区となった。
松本 剛吉(まつもと ごうきち、文久2年8月8日(1862年… 松本 剛吉(まつもと ごうきち、文久2年8月8日(1862年9月1日) – 昭和4年(1929年)3月5日)は、衆議院議員、貴族院議員。旧名は松元剛吉。『松本剛吉政治日誌』で知られる。 丹波国氷上郡柏原町(現在の兵庫県丹波市)に、今井源左衛門の四男として生まれ、松元十兵衛の養子となった。中村正直の同人社に学んだ。1884年(明治17年)に、神奈川県警部に任命され、埼玉県警部、逓信属を歴任し、1894年(明治27年)に退官した。その後、第1次大隈内閣で林有造逓信大臣の秘書官となり、第4次伊藤内閣でも林農商務大臣の秘書官を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万… 中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日)- 1940年(昭和15年)8月1日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県氷上郡久下村長。 丹波国氷上郡谷川村(兵庫県氷上郡久下村谷川、山南町谷川を経て現丹波市山南町谷川)で、農業、製油業・中川音蔵の長男として生まれる。1884年(明治17年)3月、家督を相続し、農業、製油業、鉱業を営む。 1882年(明治15年)4月、太田村外17ヶ村戸長役場用掛に就任。以後、氷上郡町村連合会議員、同郡全町村組合会議員を歴任。1893年(明治26年)5月、久下村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。
田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年… 田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年2月8日〉- 1930年〈昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。 1874年(明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。
田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9… 田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9月6日〉- 1938年〈昭和13年〉11月17日)は、日本の政治家、実業家。号は楓軒、松鶴。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)にて、農家の田文平の長男として生まれる。8歳より村医だった長沢順方に師事して読み書きを学ぶ。12歳の時に小島省斎に入門。父親の病のため、13歳でその代理を務める。学問を修めた後、1870年(明治3年)には19歳で村総代となった。20歳で家督相続。 1879年(明治12年)、第一期兵庫県会議員に当選。氷上郡書記、氷上郡長などを歴任の後、1891年(明治24年)に衆議院議員に当選(以後衆議院議員として当選4回)。
植木 致一(うえき ちいち、1849年5月5日(嘉永2年4月… 植木 致一(うえき ちいち、1849年5月5日(嘉永2年4月13日) - 1906年(明治39年)8月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 丹波国氷上郡和田村(のち兵庫県氷上郡和田村、山南町を経て現丹波市)生まれ。1872年、豊岡県教員伝習所(のち兵庫県師範学校、現・神戸大学教育学部)卒。農業を営み、和田村成章小学校教員兼校長、兵庫県会議員、氷上郡蚕糸業組合長、兵庫県茶業組合会議員、和田村長、同村会議員、町村組合会議員となる。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫県第3区から自由党公認で立候補したが38票差で落選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では兵庫県第3区から憲政党公認で立候補して当選した。