谷川 唯人(たにがわ ゆいと、2002年5月27日 - )は… 谷川 唯人(たにがわ ゆいと、2002年5月27日 - )は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。NPB加盟球団では育成選手であった。 小学校1年時から野球を始め、4年時から捕手を務める。安来市立第二中学校では軟式野球部に所属。引退後はKボールの島根県選抜に選ばれ、全国大会でベスト4入りを果たした。 高校は立正大淞南高校に進学。1年春からベンチ入りし、2年夏までは遊撃手や投手としても出場した。2年秋からは正捕手に任命され、主将も務めた。3年夏に開催予定だった第102回全国高等学校野球選手権島根大会は、新型コロナウイルス感染症の流行により中止となったが、その代替として開催された令和2年度島根県高等学校夏季野球大会では、決勝で益田東高校に敗れて準優勝だった。
山本 一徳(やまもと かずのり、1983年6月13日 - )… 山本 一徳(やまもと かずのり、1983年6月13日 - )は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 島根県安来市出身。小学校1年生の頃から野球を始め、安来高校では2年夏の県大会2回戦で7回コールドながらノーヒットノーランを達成し、ベスト4進出に貢献。3年生の5月に腰を痛め、同年夏は外野手として7安打3打点を挙げたが、ベスト8で出雲工業高に敗れた。高校卒業後は上京し浪人生活を送る。一浪の末、一般入試で早稲田大学に入学。 東京六大学では宮本賢、大谷智久の左右のエースの存在もあり未勝利に終わった。リーグ通算12試合に登板、0勝0敗、防御率4.70、20奪三振を記録。独特のスリー・クォーターから繰り出す最速144km/hの動く速球と184cm、90kgという恵まれた体格を買われ、2006年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムから5巡目で指名された。
義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2… 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。
長島 康夫(ながしま やすお、1937年 - )は、島根県安… 長島 康夫(ながしま やすお、1937年 - )は、島根県安来市出身(福岡県北九州市生まれ)の野球選手(投手)・監督。 北九州で生まれたが、1945年8月に製鉄会社に勤める父親の仕事の関係で、朝鮮東部の清津に住んでいた。旧ソ連軍の侵攻で残された家族は南を目指したが、旧ソ連占領下の平壌で収容され、小学3年時に当地で終戦を迎えた。終戦の3日前に民間召集で戦地へ行った父親は行方不明となり、母が一家を支えてきた。長島も生計を助けるため、牛乳配達をしていた。 戦後の混乱で、本土に引き揚げるまでに姉を栄養失調で失うなど、過酷な1年間を過ごしながら、母、妹と共に命からがら帰国。1946年7月に長島の家族を含む30 - 40人が収容所を脱出し、命がけで北緯38度線を越えた。