財部 能成(たからべ やすなり、1958年(昭和33年)1月… 財部 能成(たからべ やすなり、1958年(昭和33年)1月6日 - )は、日本の政治家。元長崎県対馬市長(2期)。 長崎県下県郡厳原町出身。福岡大学人文学部中退。厳原町役場、対馬市役所に勤務し、その後、西日本新聞記者(対馬通信部)となる。 2008年の対馬市長選挙に立候補し、現職の松村良幸を破って初当選した。3月28日に市長に就任した。※当日有権者数:30,447人 最終投票率:82.67%(前回比:-5.1pts) 2012年の市長選挙でも再び立候補した松村と新人1人を破って再選した。※当日有権者数:28,426人 最終投票率:81.7%(前回比:-0.97pts) 2016年の市長選挙には立候補せず、3月27日に退任した。
浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(… 浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(慶応元年7月18日)- 1936年(昭和11年)12月18日)は、明治から昭和前期の漁業指導者、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡芦浦村(長崎県下県郡船越村、美津島町を経て現対馬市美津島町芦浦)で生まれる。漢学、法律学、経済学を修めた。 長崎県収税属となる。その後、厳原連合町村会議員、長崎県会議員、同参事会員などを務めた。水産組合副組長に就任し、水産業の振興に尽力した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から立憲同志会公認で出馬し、大池忠助、早川鉄冶の有力候補と激しい選挙戦を戦い、2票差で次点となり大池に敗れた。
古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月2… 古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1937年(昭和12年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 対馬国下県郡厳原(現在の長崎県対馬市)出身。長崎甲種医学校を卒業。厳原町で協立厳原病院を開業し、医療に従事した。日清戦争時には対馬警備隊医務嘱託を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年1… 島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年10月) - 1903年(明治36年)11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小茂田村(のち佐須村→厳原町、現・対馬市)長となる。また、青年団を組織し、対馬の島政に力を尽くした。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から自由党所属で立候補したが1票差で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補し34票を獲得、対立候補と同数だったが、島村が年長者のため当選者となった。
川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - … 川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - 1940年(昭和15年)1月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡府中今屋敷町(のち長崎県下県郡厳原町、現・対馬市)生まれ。漢学を学ぶ。厳原町会議員、下県郡会議員、長崎県会議員、上県郡仁田村(のち上県町、現・対馬市)、下県郡雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)各村長、第百二国立銀行頭取、対馬漁業組合頭取、対馬汽船会社社長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から中央交渉会で立候補して当選、対立候補とは1票差の11票だった。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。
梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政… 梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政4年1月1日)- 1938年(昭和13年)11月3日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡曽村(長崎県下県郡曽村、仁位村、豊玉村、豊玉町を経て現対馬市豊玉町曽)で、対馬府中藩士・梅野益太郎の長男として生まれる。漢籍を修めた。農業を営み、数年間、教育に従事した。 1885年(明治18年)上県下県両郡総町村連合会議員に就任し、同議長、徴兵参事員を務めた。その他、村会議員、同議長にも在任。1889年(明治22年)対馬民党を組織し、同年、長崎県会議員に選出され6期在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に長崎県対馬から憲政本党所属で出馬して初当選。
大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政… 大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政3年4月21日)- 1930年(昭和5年)2月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡、のちの長崎県下県郡厳原町(現対馬市厳原町)で生まれる。1875年(明治8年)朝鮮慶尚道釜山に永住目的で渡航した。 旅館業から始めて、回漕業、用達業、不動産業と事業を拡大して財産を築いた。釜山電燈社長、釜山軌道取締役、釜山商業会議所会頭、釜山水産社長、釜山海産物組合長、釜山産業取締役、釜山繁栄会会長、亀浦銀行取締役などを務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し、早川鉄冶、浦瀬済之の有力候補と激しい選挙戦を戦い、浦瀬と2票差で当選した。
藤崎 可賛(ふじさき よしすけ、1854年(安政元年9月) … 藤崎 可賛(ふじさき よしすけ、1854年(安政元年9月) - 1906年(明治39年)12月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小学校教員を経て、雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)長、厳原町(現・対馬市)長となる。また、士族授産所を開き、所長となった。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において長崎6区から国民協会から立候補して1票差で当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補し34票を獲得、対立候補の島村成達と同数だったが、島村が年長者のため当選者となり、藤崎は落選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。