素潜り漁師マサル(すもぐりりょうしマサル、英語:Masaru… 素潜り漁師マサル(すもぐりりょうしマサル、英語:Masaru.、1998年2月11日 -)は日本の漁師、Youtuber、起業家。幼少期によゐこの濱口優に憧れて素潜りを始め、現在は「漁師を稼げるようにする」ため、Youtuberとして素潜り漁をテーマとした動画配信を行うかたわら沖永良部島にて水産加工場の建設を目指している。 東京海洋大学出身。2017年に魚突き&魚捌きに特化したYoutubeチャンネルを開設し、2019年末に東京から鹿児島県の沖永良部島に移住。 コロナ禍に伴う水産物需要の低下で苦境に立たされる島の漁師たちが稼げる環境を作ることを目指し、開業資金1億円で自ら水産加工場をオープンした。
敦賀 信人(つるが まこと、1977年11月3日 - )は、… 敦賀 信人(つるが まこと、1977年11月3日 - )は、日本の男子カーリング選手で、漁師。 北海道常呂町(現北見市常呂自治区)出身の男子カーリング選手で、現在は漁師。北海学園北見大学卒業。 もともとスピードスケートをしていたが、中学2年生でカーリングを始め、翌年には全日本ジュニア選手権で優勝。世界ジュニア選手権では1996年に7位、1997年も4位に入り、'97年には大会のベストスキップに選ばれる。日本選手権では1996年から1999年まで4連覇を達成(うち97年から3年は長野五輪代表チームとなる全日本チームとしての出場)。1998年長野オリンピックでは、弱冠20歳にして日本代表のスキップ(主将)を務めチームを5位に導いた。
長野 誠(ながの まこと、1972年3月30日 - )は、日… 長野 誠(ながの まこと、1972年3月30日 - )は、日本の元漁師、船員。TBS『SASUKE』のSASUKEオールスターズの1人で、史上2人目の完全制覇者。宮崎県延岡市出身。前職は株式会社タカスイ漁業部で勤務し「第50金比羅丸」船長、宮崎県延岡市観光大使。体脂肪率は5.7%(2003年時点)。 中学時代はバレーボール部に所属し、中学卒業した15歳で島野浦島で一人暮らしを始め、父親の後継ぎで漁師の道を歩み始めた。仕事漬けの日々を過ごす中で、職場の仲間が見せた『SASUKE』の映像を観て出場を目指し、2001年春の第7回大会に初出場した。 2003年春の第11回大会で初めてFINAL STAGEに進出し、翌大会にはゼッケン100番を着用し、完全制覇に0.11秒のところまで迫った。
島岡 強(しまおか つよし、1963年08月17日(昭和38… 島岡 強(しまおか つよし、1963年08月17日(昭和38年8月17日) - )は、1987年からタンザニアのザンジバル島を拠点に、漁業、運送、貿易、など地域振興の事業によってアフリカの人々の自立につながる活動をしている活動家。自らを革命家と呼ぶ。 島岡は子どものころから両親に革命家として育てられたという。 小学1年生のときにテレビで『柔道一直線』というドラマを観て、自分も強くなりたいと思って横浜にあった柔道場に通い始めた。中学校まで町道場に通い、高校と大学の途中まで柔道部だった。 17歳の時「これから革命家として本当に生きるためには一度死にに行かなければならない」「そこで死ねば天が必要としていないことだし、生きて帰れたら天が島岡を必要としている」と考えて、八甲田山に単独登山した。
吉田 恭教(よしだ やすのり、1960年 -)は、日本の小説… 吉田 恭教(よしだ やすのり、1960年 -)は、日本の小説家、漁師。佐賀県唐津市生まれ。島根県大田市在住。桃山学院高等学校卒業。 30歳まで東京で写真製版業に従事するが、病気を患い医者の勧めで島根県で一本釣りの漁師となる。2010年、『変若水(をちみづ)』(応募時のタイトルは「変若水 月神の遺産」)が第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞の優秀作に選ばれる。選考委員の島田荘司は「作中にある世界の完成度は、その大きさ、異形の度あいも含め、この作が最も高い」と評した。2011年、同作で本格的に作家デビューする。推理作家になろうと思ったきっかけについて、「時化で海に出られないときに、小説でも書いてみようと思い立ち、島田荘司が好きだったのでミステリ小説を書くことにした」と語っている。
浜本 雄幸(はまもと ゆうこう、1928年 - 2022年4… 浜本 雄幸(はまもと ゆうこう、1928年 - 2022年4月28日)は、日本の漁師。北朝鮮による拉致被害者である浜本富貴恵の兄。 福井県小浜市生まれ。妹の富貴恵が1978年、当時婚約中だった夫の地村保志とともに北朝鮮工作員の辛光洙により小浜海浜公園で拉致されたアベック失踪事件以降、地村保と2人を捜し続けた。 1997年、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」翌98年には「救う会福井」が発足。外務省や警察庁にも足を運び、被害者全員の救出を訴え続けた。 2002年9月の日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認め、同年10月に地村夫妻を含む拉致被害者5人が帰国を果たすことに尽力した。以降、拉致被害者全員の救出活動を願い、日本政府に事件究明を要望していた。
加藤 茂雄(かとう しげお、1925年〈大正14年〉6月16… 加藤 茂雄(かとう しげお、1925年〈大正14年〉6月16日 - 2020年〈令和2年〉6月14日)は、日本の俳優、声優、漁師。本名同じ。東宝を経て、新星プログループに所属していた。神奈川県出身。 1925年6月16日、神奈川県鎌倉市長谷に生まれる。 石川島航空工業青年学校(のちの石川島工業高等学校)を経て、1946年、鎌倉アカデミア演劇科に入学。1949年、卒業。卒業後は、一時漁師を務めていた。 1950年の準専属契約(同期は今井和雄、緒方燐作など)を経て、1954年に東宝と専属契約する。大部屋俳優として、ノンクレジットも含めて、多数の映画に出演。 1971年の東宝専属俳優廃止後は、新星プロに所属。
三浦 久兵衛(みうら きゅうべえ、1921年頃[要出典] -… 三浦 久兵衛(みうら きゅうべえ、1921年頃[要出典] - 2006年)は、日本の漁師。 秋田県出身で、「最後のクニマス漁師」と言われ、田沢湖でクニマスが絶滅した後は、魚卵を分けたとされる地域での探索活動をおこなった。 田沢湖畔で代々漁師を営む家に生まれ、自身も漁師となる。長男によると、捕獲したクニマスについて「網を引き揚げる時の手の感触、キラキラ光る感じが忘れられない」と話していたという。 しかし、1940年に強酸性の川水を中和して発電や農業に利用する目的で、玉川の水が田沢湖に引き込まれ、それから1年以内にクニマスは姿を消した。三浦ら漁師は玉川の水を入れることで魚がいなくなることは予測していたが、「戦争に入って居り、国策遂行に逆らう事は国賊」(三浦自身の手記の表現)という事情で反対することはできなかった。
谷上 幸男(たにうえ さちお、1920年8月28日 - )は… 谷上 幸男(たにうえ さちお、1920年8月28日 - )は、日本の政治家、漁師。坊津町長(4期)を務めた。 1920年8月28日、鹿児島県川辺郡西南方村大字坊(現南さつま市坊津町坊)生まれ。坊泊尋常小学校高等科卒業。その後、裁判所の書記を目指して鹿児島市の弁護士前之園喜一郎の元で書生として住み込む。その後、上京して日立航空機製作所に入社する。その後、1941年に召集され平壌飛行場に終戦まで勤務した。終戦後は帰郷して、原捨思が所有するカツオ漁船の漁労長となった。1973年、南方水産経理部長となる。1979年11月17日、坊津町助役に就任して11年務めた。1991年、坊津町長選挙に立候補して現職の原多計志と別の新人を破って初当選を果たした。
丹野 実(實、たんの みのる、1910年(明治43年)2月1… 丹野 実(實、たんの みのる、1910年(明治43年)2月15日 - 1976年(昭和51年)7月2日)は、昭和期の漁業指導者、政治家。衆議院議員。 宮城県宮城郡塩竈町(現塩竈市)で、丹野富治郎の息子として生まれた 塩竃市漁業会長、宮城県水産評議員、同食糧品統制組合理事、同粉食協会常任理事、同社会事業協会顧問、同生活協同体連合会理事などを務めた。 政界では、塩竈市会議員、同参事会員を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に宮城県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、国民協同党政調会水産部長などを務めた。 その後、全国海苔増殖協会副会長、宮城県漁業協同組合会長、同県信用漁業協同組合連合会長、全国漁業協同組合連合会理事、関東北漁協連会長、大洋缶詰社長、日本ポゾラン会長、新東北化学社長などに在任した。
尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年… 尾形 六郎兵衛(おがた ろくろうべえ、1901年(明治34年)3月29日 - 1973年(昭和48年)7月24日)は、日本の漁業家、政治家、参議院議員、自由党所属、栄典は正五位・勲三等・瑞宝章・藍綬褒章、幼名は昌作。
河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2… 河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月28日)は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 茨城県東茨城郡吉田村吉沢(現水戸市堀町 )で、河原田太三郎の三男として生まれる。東京世田谷自動車学校を卒業した。 福島自動車学校教授を経て、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任。
田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月1… 田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月11日 - 1983年(昭和58年)11月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡村松町(現五泉市)で素封家・田代兼次の三男として生まれる。新潟県立新潟中学校を経て、1915年、農林省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業した。 その後、佐渡島で漁業に従事。1916年、青森県技手に就任。1919年、日魯漁業の平塚常次郎に見いだされ同社に入社。函館製網船具 (株) に転じて新川工場長に就任し漁網の改良に従事。1931年に独立して漁網漁具製造販売業を営んだ。また、函館産業社長、函館青果卸売市場社長、北海道方面委員、函館地方裁判所調停委員、函館調停協会理事などを務めた。
原 捨思(はら すてし、1891年(明治24年)6月16日 … 原 捨思(はら すてし、1891年(明治24年)6月16日 - 1976年(昭和51年)1月31日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県川辺郡西南方村大字泊[要出典](坊津村、坊津町を経て現南さつま市坊津町泊)で生まれる。 15歳から漁業に従事。1927年(昭和2年)から兄・耕と共同で南方漁場開拓に従事し、南洋諸島方面で活動した。その後、鹿児島青年師範学校講師、鹿児島県企画室参与、鹿児島県潜水士協会理事長、同水産振興協議会長、同漁港協会長、同鰹鮪漁業協同組合長、同漁業協同組合連合会長、同海難防止会長、漁村文化協会顧問、全国水産業協同組合共済会理事、全国漁港協会副会長、原水産社長などを務めた。
渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月… 渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、日本の水産業者である。 島根県島根郡片江浦(後の八束郡美保関町、現在の松江市)の生まれ。アメリカ合衆国への渡航を志したことにより、1909年(明治42年)に日本郵船が所有する「セイロン丸」の水主として乗船する。しかし航海中にイギリスのトロール漁船に遭遇したことにより下船し、帆船の手操網漁法の改善のために1911年(明治44年)に大日本水産会漁船船員養成所で学んだ。修了後は島根県水産試験場に勤務し、機船による手操網の試験および操業に携わる。 1913年(大正2年)に独立後は友人ら仲間と共に帆船である「方結丸」の建造に携わり、5年後の1918年(大正7年)には動力による網の巻上機の考案にも携わり日本で初の機船底引網漁法の開発に尽力した。
宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5… 宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5月18日 - 1963年(昭和38年)5月8日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長、茨城県那珂郡那珂湊町長、初代那珂湊市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。幼名・長松。 茨城県那珂郡湊村牛久保(湊町牛久保、那珂湊町、那珂湊市を経て現ひたちなか市牛久保)で、漁業家・宮原卯之松の長男として生まれる。湊尋常高等小学校を卒業。横須賀海兵団に入団し日露戦争に従軍して除隊した。 1908年(明治41年)12月に家業を継承した。漁業の全般の改良に務め、1920年(大正9年)2月、茨城製網常務取締役に就任。その他、湊漁業組合長、湊水難救済会長、那珂郡水産会長、茨城県漁業組合連合会長、同漁船保険組合長、同水産業会長、同信用漁業協同組合連合会長、水戸魚市場取締役、日本油脂販売監査役、宮庄漁業社長などを務めた。
真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年… 真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年(明治16年)7月1日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。玄洋社社員。 福岡県福岡区(現福岡市)で回船問屋・真藤利吉の長男として生まれる。福岡県立福岡中学校を卒業後、玄洋社に所属。中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得。日露戦争開戦後、通訳として従軍した。 その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。1926年6月、日魯漁業(現マルハニチロ)の取締役に就任。その他、日魯漁業副社長、東洋製罐取締役、函館水産販売取締役、函館製網船具取締役、樺太共同漁業取締役、台湾殖産工業取締役、北千島水産社長、函館定温倉庫社長、北千島鱈漁業社長、北海道護謨社長、北日本漁業社長、東都冷蔵社長、函館公海漁業取締役、輸出鱈協会理事長、中央水産業会副会長、西部瓦斯顧問などを務めた。
徳田 平市(とくだ へいいち、明治14年〈1881年〉 - … 徳田 平市(とくだ へいいち、明治14年〈1881年〉 - 昭和19年〈1944年〉)は、日本の実業家・漁業家。兄の奥田亀造とともに角輪組を設立(二代目社長)。旧制鳥取第二中学校(現・鳥取県立鳥取東高等学校)の創立功労者。 1881年、 鳥取県岩井郡大谷村(現・岩美郡岩美町大谷)の地引き網の網元・奥田周蔵、きよの四男として生まれる。長じて兄・亀造らと朝鮮沿岸の漁場開拓に乗り出したが、日露戦争が始まったため従軍、沙河会戦の功績により金鵄勲章を授与された。 1908年、東京に遠洋漁業角輪商会を合資会社で設立。翌年、単身カムチャツカに渡り、流木で立てた小屋に仮泊しながら、鮭・鱒の漁場調査を行う。1910年、気高郡豊実村宮谷(現・鳥取市宮谷)の豪農・徳田家の養子となり、長女かねと結婚。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4… 佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4月22日 - 1935年(昭和10年)4月21日)は、日本の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北能。 秋田県由利郡、後の金浦町(現:にかほ市)で北能喜吉の二男として生まれる。1895年2月、由利郡塩越村(現:にかほ市)の呉服商・佐々木小治郎の養子となる。1897年にロシア帝国沿海州を視察し、その地の漁業の有望なことを見極め、樺太を含めた同地方での漁業を経営。函館に根拠を置き、倉庫業、船舶業、米穀海産物委託問屋なども営んだ。函館区会議員、函館商業会議所特別議員、樺太建網漁業水産組合組長、露領水産組合評議員、函館慈恵院監事、北日本汽船重役、北海道鉄道重役、樺太漁業社長、佐々木倉庫社長、寿都鉄道社長などを務めた。
奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4… 奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和19年(1944年)3月24日)は、日本の実業家・漁業家(オツタートロール漁業の先覚者、機船底曳網漁業の創始、角輪組設立)、政治家(衆議院議員、貴族院議員)。 第2回水産博覧会で朝鮮半島沿岸漁場とオッタートロールの知識を得、まず、オッタートロールに関し、1901年に鳥取県知事に山陰沖の漁業権許可を申請したが、反対運動が起きたため香川輝知事は拒否を決せずこれを握り潰した。他方、朝鮮半島沿岸漁場に関しては、1902年から1903年にかけて、韓国東北海岸漁業探検を実施、相当の漁獲をあげられることを確認した。1904年には寺田祐之知事の賛意を得てオツタートロール汽船海光丸を建造。
三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明… 三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明治3年5月28日)- 1930年(昭和5年)1月31日)は、明治後期から昭和初期の水産技術者、漁業家、政治家。衆議院議員。 豊後国大野郡、のちの大分県大野郡赤嶺村(三重村、三重町を経て現豊後大野市三重町赤嶺)で、三浦喬三の長男として生まれる。1891年(明治24年)法律を学ぶため上京したが、村田保と面会すると日本の水産業振興の重要性を説かれ、水産伝習所(のち東京水産大学、現東京海洋大学)に入学した。1894年(明治27年)水産伝習所を卒業。北海道に渡り水産業の視察、研修を行う。 1896年(明治29年)に帰郷し、大分県庁に入庁して大分県技手、同県水産試験場長、同水産試験業技師、大分県技師、勧業課長などを歴任し、水産業、特に遠洋漁業の振興に尽力した。
小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月… 小池 仁郎(こいけ にろう、慶応2年5月7日(1866年6月19日) - 1936年(昭和11年)1月24日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、水産業者。愛称にポロニシパ、ヤソの小池。 越後国中頸城郡潟町村字小舟津(現在の新潟県上越市大潟区)出身。酒造業兼漁業の小池太一郎、やをの四人兄弟の三男として生まれる。長兄は夭折した。幼少期は越後高田藩の松下武次郎から漢文を学んだ。1877年(明治10年)に叔父の小池仁兵衛の養子となった。1879年(明治12年)に新潟師範学校速成科高田支場を卒業し、小学校教員となったが[要出典]、翌年根室に渡った。 別当賀にて林業に従事したのち、酒販業を経て、勉学を兼ねて根室の天杉商店で働く。
浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(… 浦瀬 済之(浦瀨 濟之、うらせ さいし、1865年9月7日(慶応元年7月18日)- 1936年(昭和11年)12月18日)は、明治から昭和前期の漁業指導者、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡芦浦村(長崎県下県郡船越村、美津島町を経て現対馬市美津島町芦浦)で生まれる。漢学、法律学、経済学を修めた。 長崎県収税属となる。その後、厳原連合町村会議員、長崎県会議員、同参事会員などを務めた。水産組合副組長に就任し、水産業の振興に尽力した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から立憲同志会公認で出馬し、大池忠助、早川鉄冶の有力候補と激しい選挙戦を戦い、2票差で次点となり大池に敗れた。
綾香 造酒太郎(あやか みきたろう、元治元年〈1864年〉1… 綾香 造酒太郎(あやか みきたろう、元治元年〈1864年〉11月24日 - 没年不詳)は、長崎県北松浦郡中野村の漁業家。明治25年(1892年)の暴風雨に際し、遭難した漁夫を断崖絶壁から救出した功績により、明治26年(1893年)に紅綬褒章を受章した 。 綾香造酒太郎は、長崎県北松浦郡中野村(現平戸市)で先代弁蔵の次男として生まれ、家業である漁業に従事した。幼少より漁業を学び、水泳にも優れ、14歳で一人前の漁師と認められた。剛毅で任侠心が厚く、同情心に富んだ人物として知られた。 明治25年11月23日、玄界灘が暴風雨に襲われた際、同村白江沖で広島県安芸郡瀬戸島村の漁夫らが乗る漁船が難破した。遭難者は約20尋(約36m)断崖の下の岩角にしがみついたが、満潮により命の危険にさらされた。
水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日(元… 水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1922年(大正11年)7月30日)は、日本の漁業家。 陸前国気仙郡吉浜村(のち岩手県気仙郡吉浜村→三陸村→三陸町、現・大船渡市)千歳(せんざい)で半農半漁の家の水上助十郎の長男に生まれる。1881年(明治14年)父の金を持ち逃げして、上京、東京では煎餅屋に奉公した後、養鶏業を始めた。翌年、父に呼び戻され、帰郷。佐々木ソデと結婚する。吉浜で漁業を手伝いながら、機を見て5年後に再び上京、小笠原諸島の父島に渡り、製塩法を学んだが、島内で牛を見て、牛の飼育を思いつき、牛2頭を父島から吉浜に連れて牛の飼育を始めたが長続きしなかった。
青木 熊吉(あおき くまきち、1864年3月19日(文久4年… 青木 熊吉(あおき くまきち、1864年3月19日(文久4年2月12日) - 1940年12月1日)は、日本の漁師、海洋生物の採集人。 相模国三崎入船町(後の神奈川県三崎町、現在の三浦市の一部)に、漁師のひとり息子として生まれ、正規の教育は受けないまま漁師となる。 1886年に当時の東京帝国大学が三崎に臨海実験所(後の東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所:通称「三崎臨海実験所」)を設けると、そこで研究に従事する研究者たちの海洋生物採集に興味を持ち、1888年ころから自ら進んでその手伝いをするようになり、箕作佳吉、丘浅次郎、飯島魁、田中茂穂、岸上鎌吉、石川千代松、大島正満など多数の研究者たちと交わりながら海洋生物の採集に従事し、「三崎の熊さん」の愛称で研究者たちから親しまれた。
武満 義雄(武滿、たけみつ よしお、1863年3月24日(文… 武満 義雄(武滿、たけみつ よしお、1863年3月24日(文久3年2月6日)- 1941年(昭和16年)6月19日)は、明治から昭和初期の漁業家・政治家。衆議院議員。旧姓・木原。 薩摩国薩摩郡隈之城郷、のちの鹿児島県薩摩郡隈之城村(川内町、川内市隈之城を経て現薩摩川内市)で、木原助左衛門の二男として生まれ、1876年(明治9年)武満貢の養子となり、1876年(明治9年)9月、家督を相続した。英漢学を修得。1880年(明治13年)に上京して岡千仭(岡鹿門)から漢学を学んだ。1883年(明治16年)鹿児島の三州義塾で中学程度の普通学を修め、そのほか私塾で学ぶ。1884年(明治17年)再度上京して東京法学院(英吉利法律学校、現中央大学)で学んだ。
2代佐藤 栄右衛門(さとう えいえもん、1862年8月14日… 2代佐藤 栄右衛門(さとう えいえもん、1862年8月14日(文久2年7月19日) - 1917年(大正6年)1月23日)は、日本の政治家、漁業家、実業家。衆議院議員。幼名・幾太郎。 蝦夷地箱館(現・函館市)で佐藤重三郎の息子として生まれる。明治2年6月(1869年)、歌棄郡(現・寿都郡)の漁業家、初代・佐藤栄右衛門の養子となる。1885年に養父の隠退に伴い家督を相続し栄右衛門を襲名。歌棄郵便局長、歌棄水産物営業人組合納税委員、歌棄村惣代人、歌棄郡惣代人、歌棄水産組合頭取、学務委員、寿都外三郡聯合漁業組合副会長、歌棄水産税区会議員、歌棄水産組合組長、寿都外三郡水産組合聯合会組長、歌棄村会議員、寿都銀行頭取、寿都汽船取締役、寿都倉庫重役、後志興農監査役、北海道会議員などを歴任。
内山 吉太(うちやま きちた、1862年4月13日(文久2年… 内山 吉太(うちやま きちた、1862年4月13日(文久2年3月15日 ) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、日本の漁業家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓は金田。 越後国蒲原郡、のちの新潟県北蒲原郡南浜村(現新潟市北区)で里正・金田家に生まれ、慶応元年12月(1866年)同郷の内山タケの養子となる。漢学を修めた。1877年、函館に移り北海道、樺太で遠洋漁業を経営。1895年、サガレン(樺太)漁業組合総代に選出された。 また、北海道機械網(株)監査役、東洋捕鯨(株)取締役、函館商業倶楽部会頭などを務めた。 立憲政友会の結党に参画し、同函館支部創立委員、同支部幹事となる。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙の北海道庁函館区において平出喜三郎と戦い落選。
倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年… 倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年3月28日)- 1935年(昭和10年)7月13日)は、明治から大正期の漁業家、政治家。衆議院議員。幼名・棟太郎。 壱岐国壱岐郡箱崎村(長崎県壱岐郡芦辺町を経て現壱岐市)で、水産業、先代倉光藤太、モトの長男として生まれる。和漢学を修めた。1890年(明治23年)4月、藤太を襲名した。 家業の水産業を継ぎ、その改良発展に尽力した。壱岐実業会副会長に就任。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で長崎県郡部区から無所属で出馬して初当選。実業界に専念するため第11回総選挙に立候補しなかったが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙に立憲同志会から出馬して再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政… 遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政元年11月1日)- 1911年(明治44年)5月16日)は、明治時代の政治家、漁業家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は岩太郎。 加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる。幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに付き剣術や槍術を学んだ。ついで島田定静の門に入り文学を修め、同門の塾長となった。18歳の時、仏学校に入るが退学し、県立中学に転じた。 1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した。
小川 蔵次郎(藏次郎、おがわ くらじろう、1853年6月17… 小川 蔵次郎(藏次郎、おがわ くらじろう、1853年6月17日(慶應元年8月5日)- 1936年(昭和11年)11月25日)は、明治後期から昭和初期の漁業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県島根郡野波村長。 出雲国島根郡、のちの島根県島根郡野波村(八束郡野波村、島根村、島根町を経て現松江市島根町野波)で、小川仙四郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1896年(明治29年)7月、家督を相続した。 1889年(明治22年)野波村長に就任。また八束郡会議員、同議長を務めた。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めて1912年(明治45年)に退任した。 1912年5月、第11回衆議院議員総選挙(島根県郡部、立憲政友会)で初当選し、1917年(大正6年)4月の第13回総選挙(島根県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月1… 渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月16日(弘化3年3月21日) - 1932年(昭和7年)5月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員、小樽区長。初名・佐助。 出羽国能代港(現秋田県能代市)で渡辺甚四郎の二男として生まれる。12歳まで能代の商家で奉公し、万延元年(1860年)家出して小樽に渡り、山田兵蔵家の店員として勤め、主人からの信頼を得てその一字をもらい受けて兵四郎と改名。1877年に独立し荒物商を営む。 また漁業経営にも乗り出し、ニシン漁網の改良を行い、漁業組合、水産組合を創設して、小樽郡漁業組合頭取、小樽外六郡漁業組合連合会長、小樽水産組合長など務め、北海道水産界の振興に貢献した。
篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)-… 篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)- 1910年(明治43年)8月28日)は、明治期の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国閉伊郡浦鍬ヶ崎村(岩手県閉伊郡浦鍬ヶ崎村、東閉伊郡浦鍬ヶ崎村、鍬ヶ崎町、下閉伊郡鍬ヶ崎町、宮古町を経て現宮古市鍬ヶ崎)で、徳三郎の長男として生まれた。独学で学問を修めた。 1878年(明治11年)汽船を用いて天然氷40トンを初めて東北から東京へ輸送することに成功。1880年(明治13年)閉伊川沿岸埋立工事を計画し、3年間の工期で切通しを開削して交通の利便性を向上させた。1882年(明治15年)宮古湾漁業会社を設立して、鮭建網、鮭留網の新漁場を開いた。
初代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、1841年(天保12年… 初代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、1841年(天保12年9月) - 1908年(明治41年)3月7日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 加賀国江沼郡橋立村(現加賀市)出身。20歳で堺商人・河内屋仁兵衛に千石船の船頭として奉公し、日本海沿岸から蝦夷地を航海。1868年(明治元年)に河内屋総支配人に就任。箱館戦争では新政府の兵器・糧食を自己所有汽船「寅一」「寅二」の二艘で運搬した。 その後、箱館に居住し、独立して商業、漁業を営み、特に千島漁業で巨万の富を築いた。また、函館商業学校商議委員、水産調査地方通信委員、函館区会議員、函館水道商議委員、函館町会所取締、シカゴ・コロンブス博覧会事務委員、大日本水産品評会出品委員、函館区共有財産理事員、函館港湾築堤委員、函館大隊区徴兵参事員、函館商業会議所会頭、函館銀行取締役、函館港調査委員、函館港工事改良委員、北海道拓殖銀行設立委員、フィラデルフィア博物館顧問、函館区会議長代理者、立憲政友会創立委員、第五回内国勧業博覧会評議員、北海道会議員、道会議長などを歴任した。
中川 源吾(なかがわ げんご、弘化4年8月18日(1847年… 中川 源吾(なかがわ げんご、弘化4年8月18日(1847年9月27日) - 大正12年(1923年5月26日)は、琵琶湖の水産業者、水産資源保護のため養殖を推進した。 中川源吾は、弘化4年8月18日(1847年9月27日)近江高島郡百瀬村大字知内(現滋賀県高島市マキノ町知内)の農家に生まれた。幼少時より水産に興味を持ち、明治8(1875年)知内川漁場取締人になった。明治14年(1881年)滋賀県高島郡に高島郡水産蕃殖会を設立に参加し、後年近江水産組合の取締役になった。 明治以降琵琶湖水産資源の乱獲から漁獲高が次第に減少するに及び、源吾は漁獲制限と水産資源の繁殖の必要性を説いてまわり、初めは多くの漁民から漁獲制限に対し反対していたが、組合規約を定め、禁漁区を設けることで徐々に禁漁を実行していった。