兼間 祐二(かねま ゆうじ、1964年(昭和39年)6月11… 兼間 祐二(かねま ゆうじ、1964年(昭和39年)6月11日 - )は、日本の実業家、銀行家。北海道銀行代表取締役頭取を務める。 北海道札幌市出身。北海道札幌南高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業後、1987年北海道銀行入行。1994年に総合企画部に配属、翌1995年に頭取直轄経営企画室が新設されると同室に配属。その後、石狩市の花川支店長や、経営企画グループ調査役グループリーダーを経て、2011年札幌市の鳥居前エリア総括兼鳥居前支店長。2013年執行役員オホーツク地区営業担当兼北見支店長。執行役員札幌・石狩、空知地区営業担当を経て、2016年取締役常務執行役員企画管理部門長。2021年に笹原晶博の後任として常務取締役から代表取締役頭取に就任。
安田 光春(やすだ みつはる、1959年10月5日 - )は… 安田 光春(やすだ みつはる、1959年10月5日 - )は、日本の実業家、銀行家。北洋銀行取締役会長。北海道経済同友会代表幹事。札幌商工会議所会頭。 北海道札幌市出身。札幌市立新琴似小学校、札幌市立新琴似中学校、北海道札幌北高等学校、慶應義塾大学商学部卒業後、1983年北洋相互銀行(現在の北洋銀行)入行。経営管理部企画課長や宮の沢支店長を経て、2007年人事部調査役のまま、当時賞味期限改ざん問題で揺れていた石屋製菓に出向。2009年同行に復帰し融資第一部副部長、2014年取締役に選任され、2016年常務、2018年初の生え抜きとして頭取に就任。2021年4月北海道経済同友会代表幹事、6月第二地方銀行協会会長にそれぞれ就任する。
笹原 晶博(ささはら まさひろ、1957年2月21日 - )… 笹原 晶博(ささはら まさひろ、1957年2月21日 - )は日本の銀行家。北海道銀行代表取締役会長、北海道経済連合会副会長。 北海道帯広市生まれ。北海道札幌北高等学校、北海道大学教育学部卒業後、1979年北海道銀行入行。入行同期に堰八義博第6代頭取や、山川広行札幌ドーム社長がいる。 営業企画室室長、月寒支店長などを経て、2003年取締役執行役員。2006年取締役常務執行役員。2010年代表取締役副頭取兼ほくほくフィナンシャルグループ取締役。2015年から代表取締役頭取兼ほくほくフィナンシャル代表取締役副社長を務め、2018年には北海道銀行と常陽銀行の間で、北海道産品や茨城県産品のロシア、東南アジア輸出拡大支援などでの連携協定を締結した。
堰八 義博(せきはち よしひろ、1955年(昭和30年)5月… 堰八 義博(せきはち よしひろ、1955年(昭和30年)5月26日 - )は、日本の銀行家。北海道銀行特別顧問。NHK経営委員会委員。北海道札幌市出身。 先祖の堰八安高(堰八太郎左衛門)は津軽藩の藩士で、洪水を防ぐ堰の番人を務め、川の氾濫を鎮めようと自ら人柱を志願した。その逸話は、地元小学校の副読本においても取り上げられている。実娘は北海道放送アナウンサーの堰八紗也佳。 北海道札幌旭丘高等学校、法政大学経営学部卒業後、1979年北海道銀行入行。同期に笹原晶博第7代頭取や山川広行札幌ドーム社長がいる。入行以来企画部門を長く担い、経営企画部経営企画室長、経営企画グループ調査役などを歴任。1997年の北海道拓殖銀行との合併交渉では実務窓口を務めた。
石井 純二(いしい じゅんじ、1951年(昭和26年)5月2… 石井 純二(いしい じゅんじ、1951年(昭和26年)5月25日 - )は、日本の実業家、銀行家。北洋銀行頭取、第二地方銀行協会会長、札幌証券取引所理事長を務めた。 北海道芦別市出身。札幌市立新琴似小学校、札幌市立新琴似中学校、北海道札幌北高等学校、弘前大学人文学部経済学科卒業。 1975年北海道拓殖銀行入行。5つ違いの兄も拓銀に入行していた。 拓銀破綻後は、1998年に北洋銀行の業務推進部管理役に就任。経営管理部や法人推進部、大通支店長を経て、2004年には親会社であった札幌北洋ホールディングスと北洋銀行の取締役に選任される。2012年に横内龍三の後任として、札幌北洋ホールディングス社長および北洋銀行頭取になる。
大道寺 小三郎(だいどうじ こさぶろう、1925年(大正14… 大道寺 小三郎(だいどうじ こさぶろう、1925年(大正14年)5月1日 - 2005年(平成17年)7月21日)は、日本の銀行家、実業家。みちのく銀行頭取を務めた。 北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。医家に生まれ、父・小市は函館市に診療所を開設。のちに病床を20以上備えた函館一の規模を誇る病院となった。 旧制函館中学、旧制弘前高校を経て東北大学法学部を卒業する。弘前高校時代の同期には鈴木清順(映画監督)、一期下にはその弟の鈴木健二(NHKアナウンサー)もいた。 大学卒業当初は、弁護士を目指して司法試験に6度挑戦したとされるが、突破できなかったため、渋々ながら齢32にして当時の弘前相互銀行に入行。