池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元… 池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日)- 1925年(大正14年)10月23日)は、明治後期から大正期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員。 備中国後月郡井原村猪原(岡山県後月郡井原村、井原町を経て現井原市井原町)で、宮六の二男として生れた。興譲館長・坂田警軒に師事し、同志社英学校を経て、1890年(明治23年)慶應義塾を卒業した。 岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、慶應義塾で教師を務め、自由新聞記者となる。山陽鉄道を経て、村井兄弟商会に入り上海支店長、工業部長を歴任。1900年(明治33年)渡米してタバコ事情を視察。1901年(明治34年)に帰国し、煙草専売局技師、東京第二煙草製造所長に就任。
石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4… 石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4年1月13日) - 1936年(昭和11年)9月4日)は、日本の内務官僚、裁判官、政治家。枢密顧問官、貴族院議員。位階勲等は正二位勲一等。 備前国邑久郡、後の岡山県邑久郡笠加村出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。岡山中学、大学予備門を経て、1889年(明治22年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。判事試補となり京橋区治安裁判所勤務となる。以後、司法省参事官試補、民事局勤務、長崎控訴院書記長、熊本地方裁判所判事などを歴任。 1892年(明治25年)10月、内務省に転じ、茨城県参事官、同県内務部第一課長兼第三課長、大阪府参事官、香川県警察部長、岐阜県書記官を歴任。
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3… 有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3年6月10日〉- 1927年〈昭和2年〉10月24日)は、明治から昭和初期の官僚、政治家。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。 備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。
東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月… 東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月18日(1863年3月7日) - 大正5年(1916年)1月24日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政本党)。弁護士。 備中国川上郡松原村(現在の岡山県高梁市)出身。司法省法学校で法学を学んだ。1888年(明治21年)より松江、東京、大阪の各裁判所で判事を務めた。1893年(明治26年)に官を辞し、大阪で弁護士を開業した。 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第6回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9… 直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9月) - 1921年(大正10年)7月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 美作国久米南条郡(のち岡山県久米郡吉岡村→柵原町、現・美咲町)生まれ。閑谷学校で学び、農業を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において岡山7区から無所属で立候補したが落選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1902年の第7回衆議院議員総選挙では岡山県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選した。1921年に死去した。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860… 有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860年2月17日) - 昭和8年(1933年)11月18日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→庚申倶楽部)。実業家。ジャーナリスト。教育者。 岡山藩士有森吉清の長男として岡山に生まれる。岡山藩藩学、温知学校、岡山変則中学校などで学んだ後、1879年(明治12年)に商法講習所(現在の一橋大学)に入学した。1881年(明治14年)、専修学校(現在の専修大学)経済科に転じた。専修学校卒業後の1882年(明治15年)に東京大学に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。その後、ドイツに留学し、イェーナ大学、ベルリン大学、テュービンゲン大学、シュトラスブルク大学で学んで、1891年(明治24年)に法学博士号を得た。
河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日… 河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日)- 1925年(大正14年)10月3日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した。 美作国西西条郡吉原村(岡山県西西条郡芳野村、苫田郡芳野村を経て現鏡野町吉原)で、河田竹治の長男として生まれる。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年5月5日)- 1935年(昭和10年)12月7日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。 美作国真島郡、のちの北条県真島郡木山村(岡山県真島郡下方村、真庭郡下方村、木山村、落合町木山を経て現真庭市木山)で、福井真兵衛の二男として生れた。讃岐国の中村三蕉に師事し漢学を修めた。北条県伝習所で普通学を学び、同所が岡山県師範学校と改称し、1875年(明治8年)卒業した。 訓導、岡山県3等教授として小学校で教える。1876年(明治9年)上京して私立学舎で学ぶ。1881年(明治14年)甲府日日新聞(現山梨日日新聞)記者となり、峡中新報主幹に転じた。
日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永… 日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永7年4月26日)- 1895年(明治28年)8月4日)は、明治期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 備前国和気郡奥吉原村(岡山県和気郡熊山村、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原)で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた。閑谷校で学び漢学を修めた。農業を営む。 1877年(明治10年)1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任。1878年(明治11年)郡役所が設置され郡書記となる。1882年(明治15年)岡山県会議員に選出され、3期12年間在任し、この間、常置委員を2期務めた。 1889年(明治22年)12月、山陽鉄道に入社して書記となり、岡山派出所に在勤し1891年(明治24年)の岡山開通に尽力。
加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永… 加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1935年(昭和10年)3月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、自由党系官選県知事、甲府市長。 美作国真島郡高田村(のち勝山村、現真庭市)で、岡山藩士・加藤量の四男として生まれる。岡山師範学校卒業後、小学校教員となる。その後、自由民権運動に加わる。国会開設運動に狂奔し、演説会を中止解散させられた腹癒せに、「国安院妨害中止居士」と大書した白木の位牌を造り、弁士一らとそれを水葬に附した逸話などがある。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で岡山県第七区に自由倶楽部から出馬し当選。1894年3月の第3回総選挙まで連続3回当選。
岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月… 岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月6日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月17日)は、明治から大正時代の政治家。警察官。銀行家。岡山市長。号は撫川。 備中撫川(現岡山市北区撫川)出身。犬飼松窓の門に学んだ。1873年(明治6年)小田県等外一等出仕、1875年(明治8年)岡山県十五等出仕、1878年(明治11年)岡山県警部、さらに西西条、西北条、東南条、苫田の各郡長を経て、1902年(明治35年)7月25日、岡山市長に就任した。この間、津山、岡山各警察署長を歴任した。 市長在任中は、前任の小田安正のあとを受けて1903年(明治36年)から上水道敷設工事に着手し1905年(明治38年)3月に全国で8番目の上水道を完成させたほか、電話開通、吉備線や宇野線の開通、西大寺鉄道の開通、市内電車の開通など近代化を進めた。
大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1… 大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1910年(明治43年)7月26日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、岡山県磐梨郡可真村長。 備前国磐梨郡弥上村(岡山県磐梨郡可真村、赤磐郡可真村、熊山町を経て現赤磐市弥上)で、誠太の二男として生れた。漢学、仏式兵学を修めた。岡山藩第3兵団予備隊機械弾薬掛、同藩第3大隊2番小隊半隊長心得、同第3大隊長を務めた。その後、里正に就任。 1877年(明治10年)第3区務所戸長に就任。以後、磐梨郡書記、同郡第7部戸長を務めた。1889年(明治22年)初代可真村長に就任し1895年(明治28年)まで在任した。1892年(明治25年)岡山県会議員に当選。
柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月… 柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月)- 1940年(昭和15年)4月25日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。製塩家。衆議院議員(1期)。 志賀源作の三男として備前岡山藩領和気郡(のちの岡山県和気郡片上町、備前町を経て現備前市)に生まれ、1870年(明治3年)9月、赤穂郡塩屋村(兵庫県赤穂郡赤穂町を経て現赤穂市)の柴原政右衛門の死跡を相続する。漢学を修める。製塩業を営む。1871年(明治4年)赤穂郡の塩田取締となり、1874年(明治7年)戸長に就任する。郡内7箇村戸長に挙げられるが、1883年(明治16年)5月に脳充血により職を辞した。ほか、赤穂鉄道社長、同相談役を歴任した。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。
井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1… 井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1929年(昭和4年)9月15日)は、明治から昭和初期の政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県真庭郡落合町長。 美作国真島郡西河内村(岡山県真島郡瀬田河村大字西河内、真庭郡瀬田河村、落合町を経て現真庭市西河内)で、庄屋・井手勘三郎の長男として生れた。親族の山田方谷、その他、進祥山、三島中洲らに師事して漢学を修めた。 1874年(明治7年)副戸長に任じられ、戸長、久米北条郡区長などを歴任し、1877年(明治10年)父の出身地英田郡区務所長となる。1878年(明治11年)4月、共之社に加わり、1879年(明治12年)12月、国会開設建言書提出の作州総代に選出され元老院に提出した。
立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5… 立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5月13日)- 1929年(昭和4年)4月4日)は、明治時代の政治家、養蚕家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。旧姓は小野。 備中国浅口郡船穂村(現・倉敷市船穂町船穂)の豪農・小野市太夫の4男として生まれる。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ。1866年(慶応2年)10月、19歳の時に美作国津山藩領西西条郡二宮村(苫田郡二宮村を経て、現在の津山市二宮)の大庄屋・立石正介の養嗣子となった。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した。 1878年(明治11年)4月、中島衛らと共に共之社を結成。
佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)… 佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)- 1900年(明治33年)6月22日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 備中国上房郡有漢村(岡山県上房郡有漢町を経て現高梁市有漢町有漢)で、酒造業の家に生まれる。幼少期は綱島某(名不詳)から漢学を学び、その後、進鴻渓に十余年師事し塾頭を務めた。 農業を営み、家業の酒造業に従事し、その後、醤油醸造業にも事業を拡大した。その他、高梁銀行頭取も務めた。公共のために私財を投じ、道路改修、官衙学校の建設、低所得者の救済に尽くした。 1890年(明治23年)岡山県会議員に選出され、学務委員、所得税調査委員、徴兵参事員なども務めた。
渡辺 磊三(わたなべ らいぞう、1841年(天保12年12月… 渡辺 磊三(わたなべ らいぞう、1841年(天保12年12月)- 1912年(明治45年)7月23日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 備中国川上郡出身。成羽藩の藩校で漢籍を学んだのち郷里の戸長および区長となる。その後、郡長を経て1890年(明治23年)岡山県会議員に当選した。 同年7月の第1回衆議院議員総選挙では岡山県第5区から出馬し当選。第2回総選挙でも当選し衆議院議員を通算2期務めた。
坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年… 坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年6月15日) - 明治32年(1899年)8月15日)は、明治期の漢学者、衆議院議員。名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。 備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。
江田 三郎 は、日本の政治家。
樽井 良和 は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)、参… 樽井 良和 は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)を歴任。
江田 憲司 は、日本の政治家、元通産官僚。