近藤 美月(こんどう みつき、2004年11月28日 - )… 近藤 美月(こんどう みつき、2004年11月28日 - )は、日本の柔道選手。佐賀県武雄市出身。階級は48kg級。身長152cm。血液型はA型。組み手は左組み。得意技は内股。兄は60㎏級の近藤隼斗。 柔道は6歳の時に武雄警察署少年柔道教室で始めた。有田中学3年の時に全国中学校柔道大会の48kg級で5位になった。佐賀商業高校へ入学すると、1年の時には全国高校選手権で2位になった。2年の時にはインターハイ48kg級の決勝で修徳高校2年の宮木果乃を大外返で破って優勝した。全国高校選手権では準決勝で宮木に僅差で敗れて3位だったが、団体戦では優勝した。3年の時にはインターハイの準決勝で宮木を技ありで破るなどして2連覇を達成した。
田中 龍馬(たなか りょうま、2001年12月28日 - )… 田中 龍馬(たなか りょうま、2001年12月28日 - )は、日本の柔道家。佐賀県佐賀市出身。階級は66kg級。身長166cm。組み手は右組み。血液型はO型。得意技は背負投。弟は2022年の世界ジュニア73kg級で優勝した田中龍雅。 柔道は7歳の時に精道館道場で始めた。昭栄中学3年の時に全国中学校柔道大会の55kg級で優勝した。佐賀商業高校1年の時には全日本カデで3位になった。2年の時には全日本カデの66kg級で優勝した。3年の時にはインターハイで優勝した。2020年に筑波大学へ進学すると、2年の時には体重別決勝でパーク24の藤阪泰恒を隅落で破って、シニアの全国大会初優勝を飾った。グランドスラム・パリでは決勝まで進むと、藤阪を浮腰で破ってIJFワールド柔道ツアー初優勝を飾った。
近藤 隼斗(こんどう はやと、2001年5月15日 - )は… 近藤 隼斗(こんどう はやと、2001年5月15日 - )は、日本の柔道家。佐賀県武雄市出身。階級は60kg級。身長163cm。血液型はA型。組み手は左組み。得意技は大内刈。妹は2021年のインターハイ48kg級で優勝した近藤美月。 柔道は7歳の時に武雄警察署少年柔道教室で始めた。小学校6年の時に全国小学生学年別柔道大会の50kg級に出場するも、初戦で敗れた。有田中学2年の時には全国中学校柔道大会66kg級の2回戦で敗れるも、3年の時には60kg級に出場して優勝した。佐賀工業高校に進むと、1年の時には全日本カデで優勝した。世界カデでは個人戦と団体戦でともに3位となった。全国高校選手権では優勝した。
古賀 稔彦(こが としひこ、1967年〈昭和42年〉11月2… 古賀 稔彦(こが としひこ、1967年〈昭和42年〉11月21日 - 2021年〈令和3年〉3月24日)は、日本の柔道家(講道館九段)、医学者。学位は博士(医学)(弘前大学・2012年)。 古賀塾・元塾長。元環太平洋大学・教授。元日本健康医療専門学校・校長。1988年ソウルオリンピック男子71kg級代表。1992年バルセロナオリンピックでは同階級で金メダルを獲得。1996年アトランタオリンピック男子78kg級でも銀メダルを獲得した。 佐賀県三養基郡北茂安町(現・みやき町)出身。 血液型はA型。身長169cm。兄も柔道家の古賀元博。古賀颯人は長男、古賀玄暉は二男。古賀ひよりは長女。 世田谷区立弦巻中学校、世田谷学園高等学校、日本体育大学卒業。
古賀 元博(こが もとひろ、1964年または1965年6月2… 古賀 元博(こが もとひろ、1964年または1965年6月25日 - 2025年1月24日)は、佐賀県三養基郡出身の、日本の柔道選手である。階級は65kg級と71kg級。身長168cm。弟はバルセロナオリンピック71kg級金メダリストの古賀稔彦。 柔道は小学校3年の時に近所の友達の影響で弟の稔彦とともに始めた。小学校を卒業すると上京して柔道私塾の講道学舎へ入塾した。弦巻中学3年の時には全国中学校柔道大会の団体戦で3位となった。なお、講道学舎の厳しさを考慮して弟の入塾には断固反対していたが、弟は全く聞き入れず兄と同じ道を辿ることになった。講道学舎では東京オリンピック中量級金メダリストの岡野功より直立姿勢から投げ切る一本背負投を直々に伝授されて得意技にしていった。
田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1… 田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1978年10月22日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 一般的な柔道選手が選手としての適齢期を終える31歳で柔道を学び始め、戦前の全日本選士権大会で優勝1度、準優勝1度の成績を残した。指導者としては国鉄や講道館、星薬科大学等で柔道教員を務め、後進の育成に当たった。 佐賀県出身。旧制小城中学校(後の県立小城高校)を中退して上京、31歳の時に初めて柔道衣に袖を通し5歳年長の高橋重蔵5段に師事した。1927年2月に講道館の初段位を許されると、翌28年1月に2段、同年9月には3段へ抜群昇段を果たした。柔道家として生きる事を決意した田中は1930年に警視庁水上警察署の柔道助教となり、以後も1931年4月4段、1932年11月には再び抜群で5段と順調に昇段を重ねた。