松浦 伊吹(まつうら いぶき、2001年10月16日 - )… 松浦 伊吹(まつうら いぶき、2001年10月16日 - )は、日本のプロ野球審判員。日本野球機構(NPB)所属の育成審判員。 静岡県富士市出身。静岡県立富士高等学校、大東文化大学を経て、NPBアンパイア・スクールを修了。 2024年、NPBアンパイア・スクール第10期修了生として研修審判員契約を結び、ルートインBCリーグに派遣された。 2025年1月1日付で日本野球機構と育成審判員として契約し、関東地区に配属された。 富士高校時代は、1年の夏から出場するなど、4番捕手として活躍した。
雄太(ゆうだい、本名:川井 進〈かわい すすむ〉、1980年… 雄太(ゆうだい、本名:川井 進〈かわい すすむ〉、1980年6月17日 - )は、長野県佐久市出身の日本の元プロ野球選手(投手)。 プロ入りから2008年までの登録名は本名と同じ「川井 進」であったが、2009年に「川井 雄太」に改め、さらに2012年からは「雄太」としていた。 上田西高等学校では2年秋に北信越大会へ進み、準々決勝では延長11回を完投勝利するが準決勝では富樫和大 - 加藤健のバッテリーを擁する新発田農に6回コールド負け、3年夏は県大会ベスト8。進学した大東文化大学では2年春に主戦となるもそのシーズンで首都大学リーグ2部に降格し、4年秋の入替戦で自身が2勝して復帰に貢献。大学卒業後は日本通運へ入社し、変則左腕として都市対抗野球に2年連続で出場し救援登板、その活躍が即戦力と評価され、2004年のドラフト会議において中日ドラゴンズから4巡目で指名され、入団。
石井 邦彦(いしい くにひこ、1955年6月25日 - )は… 石井 邦彦(いしい くにひこ、1955年6月25日 - )は、大阪府 出身の元プロ野球選手(投手)。
簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、… 簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、広島県廿日市市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。現在はプロゴルファー(ティーチングプロ)として活動している。 攻・走・守すべてに長けたオールラウンダーとして知られ、1983年にはトリプルスリーを達成している。 大竹高校では1969年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが呉港高校に敗退、甲子園には届かなかった。高校卒業後の進路として、大東文化大学からも勧誘の話が来ていたが、「給料がもらえて、尚且つ野球も出来る」として社会人野球に進む方を選び、卒業後の1970年に三菱重工三原へ入社し、都市対抗野球大会には補強選手としての出場を含め4度出場した。
島津 佳一(しまづ よしかず、1948年7月29日- )は、… 島津 佳一(しまづ よしかず、1948年7月29日- )は、大分県日田市出身の元プロ野球選手(外野手)である。
鈴木 弘(すずき ひろし、1948年6月28日 - )は、東… 鈴木 弘(すずき ひろし、1948年6月28日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。左投左打。 196cmの長身から「ジャンボ鈴木」の異名を持つ。 国士舘高等学校、大東文化大学を経て、1970年春にキャピー原田に誘われサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。MLBの球団と契約した初の日本人野手となった。 この年の3月に行われた日米野球にジャイアンツのメンバーとして来日して2試合に出場(うち1試合は先発)。アメリカに戻った後は傘下A級ディケーター・コモドアーズ(英語版)で開幕を迎えたが、1か月後にはルーキー級のグレートフォールズ・ジャイアンツ(英語版)に降格。異国での生活に慣れなかったこともあり成績は上がらず、2球団合計で70試合に出場して、打率.149、2本塁打という結果に終わった。
衛藤 雅登(えとう まさと、1947年4月15日 - )は、… 衛藤 雅登(えとう まさと、1947年4月15日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは投手。
鈴木 照雄(すずき てるお、1946年9月5日 - )は、長… 鈴木 照雄(すずき てるお、1946年9月5日 - )は、長野県阿智村出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 塚原学園天竜高等学校(現・長野県松川高等学校)から大東文化大学に進学。首都大学野球リーグでは1966年秋季リーグから一部昇格を果たすが、同季の2位が最高順位で優勝には届かなかった。 1967年秋季リーグでベストナイン(遊撃手)に選出される。大学を中退し河合楽器に入社。 1969年から3年連続で都市対抗野球大会に出場。 1971年のドラフト11位で阪神タイガースに指名され入団。大東文化大出身としては、同年ドラフトでロッテオリオンズに入団した鈴木弘とともに初のプロ選手となった。 二軍暮らしが続き、一軍では1試合しか出場できなかった。
稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 20… 稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 2000年10月15日)は、広島県三次市出身の高校野球指導者、監督。 三次中学校(現在の三次高校)卒業後、大蔵省中国財務局に入局するが2年で退職し、石本秀一の書生となって2年間野球を学ぶ。1968年春から1970年春にかけて2年間、大東文化大学硬式野球部の2代目監督に就任。これは、初代監督の岡田悦哉が広島東洋カープ二軍バッテリーコーチに就任したためだった。広島工業高校コーチを経て1976年、創部まもない東京の創価高校監督に就任。小野和義を擁して1983年夏の甲子園に同校を初出場に導いた。その後、神奈川の桐光学園監督を経て1989年、創立8年目の埼玉の花咲徳栄高校に招かれ監督就任。