足立 尚計(あだち しょうけい、本名:角鹿 尚計(つのが な… 足立 尚計(あだち しょうけい、本名:角鹿 尚計(つのが なおかづ)、1960年6月30日- )は、日本の歴史学者、神道学者、歌人、エッセイスト、神職。福井県立大学客員教授。福井市立郷土歴史博物館元館長(第17代)、博士(文学)学位請求論文「古代氏族とその祭祀の研究-越前地方を中心に-」。日本文藝家協会・現代歌人協会・日本ペンクラブ・日本歌人クラブ会員。明治維新防長殉難者顕彰会会員、白鷺舎(松平春嶽・橋本左内の顕彰・研究の会=雀部なぎさ代表・東山成江副代表)顧問。『短歌人』同人。福島泰樹に師事。氣比神社(福井県越前町気比庄)他兼務9社の宮司を勤める。大阪市天王寺生まれ(実家の先祖は山口県萩市出身、現本籍福井県)。
岡野 弘彦(おかの ひろひこ、1924年〈大正13年〉7月7… 岡野 弘彦(おかの ひろひこ、1924年〈大正13年〉7月7日 - 2026年〈令和8年〉4月24日)は、日本の歌人。位階は従三位。 國學院大學名誉教授、日本芸術院会員、文化功労者。文化勲章受章者。國學院大學文学部教授、國學院大學文学部学部長、國學院大學栃木短期大学学長などを歴任した。 三重県一志郡美杉村(現・津市)生まれ。代々神主の家に、父・弘賢の長男として生まれる。川上尋常小学校、神宮皇學館普通科を経て、1948年(昭和23年)國學院大學国文科卒。1957年國學院大學専任講師、1961年に助教授、1969年に教授、1975年からは文学部長。1995年から2007年まで國學院大學栃木短期大学学長。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)… 北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)は、日本の神官、歌人。 本名・鈴木重道。北海道出身。余市の神社の息子に生まれる。小樽中学校で二年後輩の伊藤整に、通学列車の中で島崎藤村詩集を教え、影響を与えた。伊藤の自伝的小説『若い詩人の肖像』に、本名が実名で登場する。 伊勢の神宮皇學館本科を卒業して、神宮文庫に勤務。根岸短歌会系の五更会に入り、同誌の編集発行を担当、岡麓に師事して短歌も詠んだ。埼玉県立久喜高等女学校教諭を6年勤めたのち、1934年に帰郷して神官となる。1937年より朝鮮神宮主典として京城に赴任して朝鮮総督府祭務官となるが、本州勤務を希望し福島県の伊佐須美神社宮司となり、そこで敗戦を迎える。
福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 19… 福武 枯木(ふくたけ こぼく、1886年8月10日 - 1969年7月7日)は、日本の大正から昭和期に活動した俳人。作詞家としては、本名の福武 周夫(ふくたけ ちかお)名義を使用している。岡山県出身。 1886年(明治17年)、岡山県小田郡三谷村(現在の矢掛町)横谷で福頼神社社家の福武喜雨造・知与夫妻の長男として出生。旧制岡山中学校を経て神宮皇學館を卒業。母校の岡山中学校教員在職時に笠井栖乙らと丘上俳句会を結成し、旧制第六高等学校教官らが組織した六六会を通じて志田素琴や大須賀乙字らに師事した。 1923年(大正12年)、兵庫県の旧制尼崎中学校へ転任。この時期には本名の周夫名義により朝日新聞社が懸賞公募した「全国中等学校優勝野球大会の歌」や、初代の「尼崎市歌」で入選を果たしている。
落合 直文(おちあい なおぶみ、1861年12月16日(文久… 落合 直文(おちあい なおぶみ、1861年12月16日(文久元年11月15日) - 1903年(明治36年)12月16日)は、日本の歌人、国文学者。元の名は鮎貝盛光。俳号は萩之家。短歌結社浅香社を結成、多くの門人を育成して、新派和歌革新運動を推進した。長編叙事詩「孝女白菊の歌」のほか、没後『萩之家遺稿』(1904年)などが刊行された。 1861年(文久元年)、陸奥国本吉郡松崎村字片浜(現・宮城県気仙沼市字松崎片浜 : 煙雲館)にて鮎貝太郎平盛房の二男として生まれた。幼名亀次郎。生家は仙台藩伊達家一家筆頭の家柄であった。11歳から13歳にかけて仙台の私塾、神道中教院で漢学などを学んだ。 1874年(明治7年)、神道中教院主宰であった国学者・落合直亮に才能を見込まれ、長女・松野の許嫁として養子となった。
池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年… 池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日)は、明治・大正時代の国文学者、歌人。号は「藤園」、「知旦」。 1861年、肥後国(現・熊本県)で熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれた。1879年(明治12年)に19歳で伊勢の神宮教院(現・皇學館大学)に入学し、神道・国史・国学を学んだ。神宮教院時代からの同期には落合直文がいた。同教院が閉鎖となると上京し、1882年に東京帝国大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。同級生には、落合直文や関根正直がいた。1886年に卒業。東京大学の恩師であった国文学者・小中村清矩の養子となり、小中村義象を名乗る。