丹羽 公雄(にわ きみお、1946年5月21日 - )は、日… 丹羽 公雄(にわ きみお、1946年5月21日 - )は、日本の物理学者、天文学者。専門は素粒子物理学。名古屋大学名誉教授。 丹生潔の下で宇宙線の反応を記録した「原子核乾板」からチャームクォークを観測し、小林・益川理論のきっかけを与えた(1971年)。さらに、原子核乾板中の粒子の軌跡を自動で読み取る原子核乾板全自動走査機を開発(1975年)。これによって初めてタウニュートリノ反応の結果つくられたタウ粒子を直接観測することが可能になり(1998年)、タウニュートリノの存在が証明された(2000年)。
有泉 學宙(ありいずみ のりおき、1940年 - )は、日本… 有泉 學宙(ありいずみ のりおき、1940年 - )は、日本の文学者(英文学)。静岡県立大学名誉教授。有泉 学宙(ありいずみ のりおき)の標記もある。 静岡女子大学文学部助教授、静岡県立大学国際関係学部教授などを歴任した。 信州大学文理学部人文科学科卒業、長野県長野工業高等学校教師として勤務。1971年立教大学大学院文学研究科英米文学専攻修士課程修了。東京立正女子短期大学、東海大学非常勤講師。のちに静岡女子大学文学部講師、助教授。併合により静岡県立大学国際関係学部教授。2006年定年退任。静岡県立大学名誉教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮坂 静生(みやさか しずお、1937年11月4日 - )は… 宮坂 静生(みやさか しずお、1937年11月4日 - )は、日本の俳人、国文学者。信州大学名誉教授。本名、敏夫。 長野県千曲市生まれ、松本市育ち。信州大学で近世文学を専攻。卒業後、1961年から長野県の公立高校教諭となり、1974年信州大学医学部保健学科助教授、教授を経て2001年定年退官、名誉教授。大学では近世および近現代国文学、日本人の死生観等を専門とした。 俳句は14歳から始め、18歳から「若葉」に投句、富安風生、加倉井秋をに師事。1962年、「龍膽」編集長となり同誌を小諸から発行。1968年、藤田湘子に会い「鷹」に入会、翌年に無鑑査同人となる(1995年に退会)。1978年俳誌「岳」(たけ)を創刊、主宰。
羽生田 敏(はにゅうだ さとし、1934年 - )は、日本の… 羽生田 敏(はにゅうだ さとし、1934年 - )は、日本の児童文学者、童話作家、児童文学作家。 長野県更級郡更級村羽尾(現・千曲市羽尾仙石)生まれ。信州大学教育学部卒後、長野県内の小中学校で教師を務める傍ら、日本児童文学者協会員として信州児童文学会に所属し、同会発行文芸誌「とうげの旗」で童話を発表する。須坂市立日滝小学校教員、須坂市立常盤中学校長を最後に教職を退職。その後、高橋忠治の後任として黒姫童話館の館長(2代目)を務めた。現在、所属する信州児童文学会において副会長を経て会長を務めている。また八十二文化財団評議員を兼任。須坂市在住。 地域の民話の編纂に力を入れており、特に自身の出生地であり居住地ともなっている長野県北信地域の民話を研究し、まとめている。
中野 和朗(なかの かずお、1933年 - 2026年5月1… 中野 和朗(なかの かずお、1933年 - 2026年5月19日)は、日本のドイツ文学者、教育者、信州大学名誉教授、松本大学名誉教授。松本大学の初代学長を務めた。 長野県松本市、ないし、岡谷市の出身。 信州大学文理学部から、東京都立大学 (1949-2011)(首都大学東京の前身のひとつ)大学院に進んでドイツ文学を学び、1963年に文学修士を取得。信州大学の教員となり、人文学部長、共通教育センター長などを務めた。 この間、おもにスイスのドイツ語作家ゴットフリート・ケラーの研究を行なった。 1999年に信州大学を定年退職し、松商学園短期大学学長に就任したが、当時は国立大学とはまったく異なる、教員も事務職員とともに高校訪問や就職支援業務にあたる私立大学の環境にカルチャーショックを受けたという。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。