岩井 俊介(いわい しゅんすけ、2001年7月30日 - )… 岩井 俊介(いわい しゅんすけ、2001年7月30日 - )は、愛知県高浜市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 高浜市立港小学校時代にラビットボーイズで野球を始め、高浜市立南中学校時代は硬式野球の愛知刈谷ボーイズでプレーした。 京都翔英高校では1年秋に背番号15で近畿大会に出場し、大阪桐蔭との1回戦に登板した。ただ、高校3年間は控え投手であり、3年夏は背番号11で公式戦未登板のまま、チームは京都大会3回戦で福知山成美に敗れた。 名城大学へ進学すると、同大コーチの山内壮馬の指導もあり、最速156km/hを計測するまでに成長。1年秋からリーグ戦に登板し、2年春は最多勝・ベストナイン・最優秀選手賞を獲得。
野口 泰司(のぐち たいし、2001年2月7日 - )は、愛… 野口 泰司(のぐち たいし、2001年2月7日 - )は、愛知県知立市出身のプロ野球選手(捕手)。右投右打。 知立西小1年生の時から知立西エンゼルスで野球を始め、投手や捕手を務める。知立中では愛知衣浦シニアでプレーし、2年から捕手を務め、2、3年時には全国大会に出場した。 栄徳高等学校では1年夏からメンバー入りし1年秋から正捕手。3番打者を務めた2年夏には県大会決勝まで進出するも鵜飼航丞、伊藤康祐、伊藤稜ら擁する中京大中京に敗れて準優勝。3年夏は西愛知大会3回戦で敗退し、結果的に春夏ともに甲子園出場は果たせなかった。高校通算10本塁打。 名城大学に進学し、硬式野球部では1年春からベンチ入りし、1年秋から正捕手をつかむ。
栗林 良吏(くりばやし りょうじ、1996年7月9日 - )… 栗林 良吏(くりばやし りょうじ、1996年7月9日 - )は、愛知県海部郡佐織町(現:愛西市)出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。広島東洋カープ所属。 昭和幼稚園(園内にサインが置いてある)に通っていた頃から身体能力が優れており、卒園後は愛西市立勝幡小学校に入学。軟式野球を始めた当初は内野手で、愛西市立勝幡小学校在学中に勝幡ドラゴンズ、愛西市立佐織中学校在学中に藤華クラブへ所属。愛知黎明高校在学中に、投手へ転向し、エース兼4番打者として活躍した。 進学した名城大学で山内壮馬コーチに指導を受けてから急成長。愛知大学野球のリーグ戦には、1年時の春季から登板すると、3年時の春季にノーヒットノーランを達成した。
近藤 弘基(こんどう ひろき、1993年2月12日 - )は… 近藤 弘基(こんどう ひろき、1993年2月12日 - )は、愛知県名古屋市東区出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。実父は中日ドラゴンズに所属していた近藤真市で、現役時代は親子で中日へ在籍していた。 父の影響で小学校3年頃から野球を始め、中学時代には軟式野球部に所属したが練習嫌いであったという。進学先に悩んでいた中学3年の時、親類の家にあった父が第68回全国高等学校野球選手権大会に出場して登板した享栄対高知商戦のビデオを見たことがきっかけになり、享栄高等学校に進学して野球漬けの高校生活を送った。2年でベンチ入りしてその後副主将も務めたが春・夏いずれも甲子園には届かず、卒業後に名城大学法学部法学科に進学。
角屋 龍太(かどや りゅうた、1990年10月18日 - )… 角屋 龍太(かどや りゅうた、1990年10月18日 - )は、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学4年から加納東スポーツ少年団で野球を始める。富田高校では、1学年先輩であった東明大貴の後を継ぐ形で2年から投手に転向した。 その後、名城大学を経てジェイプロジェクトに入社。同社の経営する名古屋市内の飲食店で厨房の調理担当として勤務するかたわら、ヤマハの補強選手として第86回都市対抗野球大会に出場した。 2015年のプロ野球ドラフト会議で、オリックス・バファローズから8巡目で指名。契約金2,000万円、年俸700万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は58で、入団を機に、再び東明のチームメイトになった。
森越 祐人(もりこし ゆうと、1988年8月11日 - )は… 森越 祐人(もりこし ゆうと、1988年8月11日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。
山内 壮馬(やまうち そうま、1985年7月1日 - )は、… 山内 壮馬(やまうち そうま、1985年7月1日 - )は、愛知県豊田市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。右投右打。 和紙工芸作家の山内一生は祖父の義弟に当たる。 一家を挙げて中日ドラゴンズのファンで、実父は同球団の納会や東海クラシックの女子トーナメントにも使われている新南愛知カントリークラブの支配人。このような家庭環境の下で、「中日のエースになりたい」という理由から、豊田市立梅坪小学校への在学中に軟式野球を始めた。 豊田市立梅坪台中学校を卒業するまでは投手だけでなく捕手も兼ねていたが、杜若高等学校への進学後に投手へ専念するとともに、同級生で左腕投手の長谷部康平とエースの座を争っていた。
山内 敬太(やまうち けいた、1985年5月23日 - )は… 山内 敬太(やまうち けいた、1985年5月23日 - )は、愛知県名古屋市緑区出身の元プロ野球選手(外野手)。
清水 昭信(しみず あきのぶ、1983年10月26日 - )… 清水 昭信(しみず あきのぶ、1983年10月26日 - )は、三重県松阪市出身の元プロ野球選手(投手)。
鎌田 圭司(かまた けいじ、1979年3月26日 - )は、… 鎌田 圭司(かまた けいじ、1979年3月26日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手(内野手)。 豊田大谷高を卒業後、名城大学に進学。大学の2学年上の先輩に蔵本英智がおり、後に中日でもチームメイトとなった。大学時代は1999年春季ベストナイン(遊撃手)に選出。卒業後は、トヨタ自動車に入社。 トヨタ自動車では、主に1番もしくは9番ショートとして活躍。2001年から2004年に都市対抗野球大会出場。2004年のドラフトで中日ドラゴンズから10巡目で指名されて入団。機敏な守備で走塁もあり、パンチ力もある内野の即戦力候補と評された。 2005年は、5月28日の対ソフトバンク戦9回表に立浪和義の代走で初出場し、初盗塁を記録。
英智(ひでのり、1976年5月9日 - )は、岐阜県羽島市出… 英智(ひでのり、1976年5月9日 - )は、岐阜県羽島市出身[注 1]の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。1999年から2012年まで中日ドラゴンズでプレーした。2017年現在は二軍外野守備・走塁コーチを務める。
蔵本 雅由(くらもと まさよし、1973年2月8日 - )は… 蔵本 雅由(くらもと まさよし、1973年2月8日 - )は、岐阜県羽島市出身の元社会人野球の選手(投手)。
永田 能隆(ながた よしたか、1973年1月18日 - )は… 永田 能隆(ながた よしたか、1973年1月18日 - )は、愛知県知多郡武豊町出身の元プロ野球選手(投手)。
藤原 保行(ふじはら やすゆき、1957年10月18日 - … 藤原 保行(ふじはら やすゆき、1957年10月18日 - )は、岐阜県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 市立岐阜商業高では1975年夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、岐阜第一高に敗退。 高校卒業後は、名城大学へ進学し同校の硬式野球部に入部。愛知大学リーグでは1979年秋季リーグで優勝。同年の明治神宮野球大会では決勝で明大に敗れたものの、リーグ代表として9年ぶりの準優勝。リーグ通算64試合登板し23勝20敗、防御率2.21、235奪三振。 1979年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから1位指名を受け入団。 右の本格派として期待され、プロ2年目の1981年に一軍初登板を果たし初勝利も記録する。
山本 秀樹(やまもと ひでき、1955年1月2日 - )は、… 山本 秀樹(やまもと ひでき、1955年1月2日 - )は、元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは内野手。 関商工高校では、1971年秋季中部大会県予選決勝リーグに進むが、4校中3位に終わる。名城大学に進学。愛知大学野球リーグでは、1975年秋季リーグで優勝を経験。 大学卒業後は社会人野球の大昭和製紙に入社。初出場となる1977年の都市対抗では二塁手として出場。1回戦で電電中国と対戦し、俊足を武器に9回裏にサヨナラホームスチールを決める。1979年の都市対抗では準々決勝に進出。日産自動車に敗退するが打撃賞を獲得し、同年の社会人ベストナインにも選ばれた。1980年の都市対抗ではエース杉本正が好投、決勝で札幌トヨペットに大勝し優勝を飾る。
盛田 嘉哉(もりた よしや、 1947年8月21日 - )は… 盛田 嘉哉(もりた よしや、 1947年8月21日 - )は、愛知県常滑市出身の元プロ野球選手である。
榊原 盛毅(さかきはら せいき、1933年6月30日 - )… 榊原 盛毅(さかきはら せいき、1933年6月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 尾道西高校から1952年に広島カープ へ入団。9月29日の対名古屋ドラゴンズダブルヘッダー2戦目で初先発に抜擢されると8回1失点、打者でも4打数3安打2打点と活躍し4-3で勝利しプロ初勝利を挙げた。この年の広島は9月28日時点で勝率3割を切っており球団解散危機に瀕していた。榊原の勝利で勢いに乗った広島は次の日のダブルヘッダーを連勝し、その後の8試合を4勝4敗で乗り切り最終的に勝率.316で球団解散の危機を脱した。 1954年に右肩を痛め、その後は登板数も減り1956年に引退した。 引退後は名城大学に進学し、卒業後は東洋工業に勤務した。