巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉 - 1900年〈明治33年〉5月24日)は、日本の裁判官・陸軍軍人。肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一。 天保元年12月(1831年)、肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。 幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。
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