スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )… 玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(外野手)。 水戸一高では中堅手として、エース橋本政雄(西鉄)を擁し1954年の夏の甲子園に出場。しかし1回戦で、この大会に優勝した中京商の中山俊丈投手に完封負け。 飛田穂洲をはじめ、早大野球部色が強い水戸一高に在籍しながらも慶大への進学を希望していたが卒業後は橋本とともに1955年に西鉄ライオンズ入団、高卒ルーキーながら一軍に定着する。翌1956年には外野陣の一角に喰い込み、5月からは一番打者に起用される。同年は規定打席には届かなかったが打率.297を残した。1956年からの3年連続日本一に貢献、西鉄黄金時代を支えた名脇役の一人である。
桜井 薫(さくらい かおる、1935年4月26日 - )は、… 桜井 薫(さくらい かおる、1935年4月26日 - )は、茨城県那珂湊市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 東京・王子で生まれたが、戦局が厳しくなった小学校3年の時に茨城県那珂郡那珂湊町(那珂湊市を経て、現在のひたちなか市)に疎開。那珂湊中学校から水戸一高に進みエースとして活躍。1952年秋季関東大会では準決勝に進み銚子商の原精次(大映ユニオンズ)らと投げ合うが、延長11回サヨナラ負け。翌1953年春季関東大会も準々決勝に進むが石田雅亮のいた明治高に逆転負け。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、北関東大会1回戦で作新学院に敗れ甲子園には届かなかった。1年下のチームメートに玉造陽二、橋本政雄(西鉄ライオンズ)がいた。
石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 20… 石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 2015年9月27日)は、日本のアマチュア野球選手、監督。早稲田大学野球部第9代・第14代監督。 水戸第一高等学校では、エースとして1949年秋季関東大会県予選決勝に進むが、水戸商に惜敗。翌1950年夏の甲子園予選でも北関東大会決勝に進むが、宇都宮工の神田昌男、吉成武雄(いずれものち大洋ホエールズ)のバッテリーに完封を喫し甲子園出場を逸する。 1951年に早稲田大学野球部に進み、東京六大学野球リーグでは在学中3度の優勝を経験。2年生からエースとして剛速球のストレートと大きなカーブを武器に活躍、なかでも早慶戦では6勝を挙げ大活躍した。2年次の1952年は慶應の河合貞雄と春秋にわたって全試合に投げ合いを演じ、春季2位、秋季優勝の記録を残した。
石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 20… 石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 2015年9月27日)は、日本のアマチュア野球選手、監督。早稲田大学野球部第9代・第14代監督。
桑名 重治(くわな しげはる、1921年7月18日 - 没年… 桑名 重治(くわな しげはる、1921年7月18日 - 没年不明)は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 水戸中学校から満州鉱山、松下飛行機、茨城県庁を経て、1950年に東急フライヤーズへ入団。1年目は33試合に登板して5勝11敗の成績だった。その後は1952年に6勝、1953年は8勝を挙げている。1954年は1勝9敗と成績は振るわずこの年に引退した。横手投げからシュート、カーブを武器とした。
飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12… 飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12月1日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、茨城県出身の野球選手(内野手)、学生野球指導者、野球評論家、編集者、新聞記者。本名は飛田 忠順(とびた ただより、とびた ちゅうじゅん)。 日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、学生野球の父と呼ばれる。 茨城県東茨城郡大場村(現在の水戸市)出身。父親は、大場村初代村長でもある豪農であった。水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父親の反対を押し切って早稲田大学専門部法学科に進学、野球部に入部する。この時、保証人になったのが小説家の押川春浪であり、下宿で同室であったのが針重敬喜であった。