スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
山本 大明(やまもと ひろあき、1988年6月10日 - )… 山本 大明(やまもと ひろあき、1988年6月10日 - )は、大阪府大東市出身の元プロ野球選手(捕手)。 小学2年の時、灰塚ソフトボールでソフトボールを、小学5年の時、朋来ビックジュニアで野球を始める。 中学時代は北河内ビクトリーズでプレー。入学時は主に内野手だったが、当時のコーチ(捕手出身)に捕手としての能力を見出されコンバート。楽天同期入団で当時捕手だった田中将大とは、中学時代に対戦の経験がある。 石川県金沢市の尾山台高校に進学し、最終学年次は捕手兼主将としてチームを牽引。甲子園を目指すが、地方大会準決勝で遊学館高校に敗れ、ベスト4に終わった。 2006年の高校生ドラフトにて東北楽天ゴールデンイーグルスより3巡目指名を受け、入団。
木村 泰子(きむら やすこ、1976年1月6日 - )は、日… 木村 泰子(きむら やすこ、1976年1月6日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走。石川県江沼郡山中町(現・加賀市)出身。山中町立山中中学校、藤花学園尾山台高等学校 (現・金沢龍谷高等学校)、京都産業大学卒業。 元5000m日本記録保持者、現5000m日本人学生記録(『日本学生』としては歴代2位)保持者、元10000m日本学生記録保持者である。 山中中学、尾山台高校の頃より全国大会に石川県代表として出場していた。1993年の高校3年時、第5回全国高校女子駅伝石川県予選で金沢高校に敗れはしたものの、尾山台は北信越地区代表として全国大会に出場することとなった。エース区間1区6kmを区間16位で走り20:21をマークし、チームは総合45位だった。
川 裕一郎(かわ ゆういちろう、1971年10月27日 - … 川 裕一郎(かわ ゆういちろう、1971年10月27日 - )は、日本の政治家、実業家。参政党所属の衆議院議員(1期)、参政党副事務局長(第2代)。 金沢市議会議員(1期)、石川県議会議員(5期)、参政党副代表などを歴任。 石川県金沢市出身。藤花学園尾山台高等学校を経て北陸コンピュータ専門学校を卒業。地元の情報通信企業に就職して会社役員にまでなるが、人生を懸ける仕事でないと考え退職。 情報通信企業退職後に福祉の資格を取り福祉関連会社を設立して代表取締役に就任。福祉の現場で弱者に光が当たっていないことを目の当たりにしたために、社会を変えるために政治家になることを決意。2007年の金沢市議会議員選挙に民主党公認で出馬し、4984票を得てトップ当選。
大矢 剛功(おおや ひさかつ、1964年7月2日 - )は、… 大矢 剛功(おおや ひさかつ、1964年7月2日 - )は、日本のプロレスラー。石川県金沢市出身 で、現在は兵庫県神戸市在住。身長185cm、体重105kg。現在はフリーとして、主戦場とする北都プロレスのほか各プロレス団体に参戦している。かつての本名は大矢健一であったが、法的手続きを執り、本名も大矢剛功に変更している。 藤花学園尾山台高等学校卒業後、神戸市の体育専門学校を経て、1985年に新日本プロレスに入門。 1986年4月20日、木更津市倉形スポーツ会館において蝶野正洋戦でデビューしたが、ドン荒川が開発した新技の実験台にされたりしていた。その後、右腕の怪我で一年休場し、新日本より退団を言い渡されたが選手会の仲立ちで退団は撤回された。
浅井 純哉(あさい すみや、1957年7月13日 - )は、… 浅井 純哉(あさい すみや、1957年7月13日 - )は、日本の高校野球指導者。金沢龍谷高等学校の野球部監督を務める。かつては金沢高等学校や鵬学園高等学校の野球部監督を務めた。 石川県輪島市出身。金沢高等学校野球部OB内野手(甲子園出場経験はなし)。国士舘大学準硬式野球部では投手。 輪島市の高校で臨時職員として勤務した後、1981年(昭和56年)に母校・金沢高等学校へ戻り、野球部コーチ。責任教師を経て、1993年(平成5年)秋より野球部監督就任。2011年(平成23年)6月、育成功労賞を受賞。同年10月の山口国体を最後に勇退を発表した。後任は野球部長の岩井大。 金沢高校時代は白山市(旧:美川町)の自宅を下宿として、輪島市など県内の遠隔地および希望する野球部員の面倒をみていた。
加藤 宏子(かとう ひろこ、旧姓:辻、1938年11月29日… 加藤 宏子(かとう ひろこ、旧姓:辻、1938年11月29日 - )は、石川県金沢市出身の元体操競技選手。1964年東京オリンピック体操女子団体銅メダリスト。夫は1968年メキシコオリンピック体操団体金メダリストの加藤武司。金沢大学卒業。 藤花高(現金沢龍谷高)でインターハイ個人総合2連覇と活躍。地方で練習環境に恵まれず、指導者も元飛び込みの選手で体操の経験は皆無だった。1956年メルボルンオリンピック最終予選で次点で落選し、初の五輪出場を逃す。代表選手のほとんどが東京を拠点とする中、生まれ育った金沢にこだわり、強化合宿のたびに金沢‐東京間を夜行列車で片道8時間かけて上京した。 都内の大学への進学を目指したが家庭の事情で諦め地元の金沢大に進んだものの、女子体操部員は一人だけで、合宿のたびに上京する生活が続いた。