スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
戸村 健次(とむら けんじ、1987年10月20日 - )は… 戸村 健次(とむら けんじ、1987年10月20日 - )は、埼玉県日高市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。右投右打。 小学3年時から野球を始め、中学時代までは軟式野球をプレー。中学に入学する頃には東京六大学でのプレーを目指すため、大学の付属高校への入学を目標にしていた。志望校だった立教新座高校の合格の目安の偏差値が高く、3年生のときには受験勉強中心の生活になったため、中学最後の大会では野球部のレギュラーになれなかった。 勉強の甲斐あり、立教新座高校に合格し、進学。1年秋からのベンチ入りを経て、2年時の春からエースの座を確保した。在学中からストレートで最速145km/hを計測するなど、右の本格派投手として注目されていたが、春夏ともに阪神甲子園球場での全国大会へ出場できなかった。
広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は… 広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)、埼玉西武ライオンズ取締役。球団本部長。 小学生時代に「西武ライオンズ友の会」会員として、足繁く西武ライオンズ球場で試合観戦した。 越谷リトルリーグで硬式野球を始める。リトルリーグ時代は投手であったが、中学校の野球部(軟式野球)とシニアリーグ(硬式野球)を掛け持ちしていたため、肩・肘を痛めてしまった。その後立教高校(現・立教新座高校)からは外野手に転向し、立教大学に進学。 大学4年の秋、プロ入りを熱望しこの年のドラフトで指名を待っていたが、指名は無かった。 卒業後は野球から離れ、就職の内定していた全日空に入社し、入社式で総代に抜擢された。
高林 孝行(たかばやし たかゆき、1967年9月12日 - … 高林 孝行(たかばやし たかゆき、1967年9月12日 - )は、元社会人野球選手(内野手、外野手)。東京都千代田区出身。日本石油に所属していた。 父は元プロ野球選手の高林恒夫。 立教高校(現・立教新座高校)では、1984年秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、エース原口哲也を擁する熊谷商に完封負け。翌1985年夏の県予選では、同期の平田国久(立大-日本生命)の好投もあり、決勝で石田雅彦のいた川越工を破り、夏の甲子園に出場。1回戦はエース吉田直喜を骨折で欠く佐世保実を降すが、2回戦では東洋大姫路高の豊田次郎に抑えられ大敗を喫する。他の同期に黒須陽一郎がいた。 卒業後は平田、黒須とともに立教大学に進学。
黒須 陽一郎(くろす よういちろう、1967年5月1日 - … 黒須 陽一郎(くろす よういちろう、1967年5月1日 - )は、東京都出身の元野球選手(外野手)。右投右打。 立教高では、2年次の秋から野球部の主将となり、3年次の1985年には4番・遊撃手として同校初となる夏の選手権に出場。2回戦でチームは東洋大姫路高に敗れたものの、この試合で豊田次郎から3ランホームランを放っている。 高校卒業後は、系列の立教大学に進学。外野手に転向して1年目の1986年からレギュラーとして活躍し、1年秋のリーグ戦でベストナインに選出された。4年生時の1989年になると主将を任され、春季リーグでは三番・中堅手として大森剛(慶應大学)との争いの末に本塁打王を獲得し、2度目のベストナインを受賞した。
矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手、スポーツライター。 医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。立教高校(現・立教新座高校)から、立教大学へ進学。立教大では、高校時代から1年先輩の長嶋一茂とクリーンナップを組んだこともあった。東京六大学リーグ通算83試合に出場し、245打数71安打、打率.290、17本塁打(当時歴代6位、現歴代10位タイ、立教大学の選手としては当時歴代1位)、38打点。ベストナイン2回。第16回日米大学野球選手権大会オールジャパンのメンバー。 1988年のドラフト会議で、大学の先輩である大沢啓二が常務であった日本ハムファイターズから6位指名され入団。
矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手、スポーツライター。現役時代の登録名は矢作 公一(読み同じ)。
岡持 和彦(おかじ かずひこ、1951年9月9日 - )は、… 岡持 和彦(おかじ かずひこ、1951年9月9日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・コーチ。東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズに所属していた。 立教高校では3年次の1969年、夏の大会でエースとしてチームを県準決勝まで進出させる原動力となったが、川越工に敗退。左腕からの速球が武器で、打撃も優れ、高校時代の通算打率は.350。高校同期に内野手の坂口雅久がいた。 同年のドラフト6位で東映フライヤーズに入団し、当初は投手であったが2試合のみの登板で外野手に転向。控えでの起用が多く、19年に及ぶ現役生活では一度も規定打席に到達したことがなかった。しかし1977年には二番打者、右翼手の定位置を得て活躍、夏場に故障欠場したものの打率.282の好成績を記録した。
齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2… 齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2019年4月4日)は、日本のアマチュア野球指導者・解説者。 中学生の頃から野球を始め、立教高校から立教大学経済学部卒業。社会人野球のヤシカを経て、1967年4月から東京農業大学第二高等学校の教諭になると同時に硬式野球部の監督に就任し、以降27年間で春2回、夏4回、甲子園に出場する。群馬県での高校野球監督就任については、群馬県立桐生高等学校監督であった稲川東一郎への思いがあったと語っている。 2000年から4年間、立教大学野球部監督。2007年に育成功労賞を受賞。 監督から退いた後も野球のシーズンになると地元群馬テレビの高校野球関連番組に出演したり、上毛新聞紙上に観戦コメントを掲載したりなど活動した。
高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - … 高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - 2009年9月5日)は、昭和中期(1960年代前半)のプロ野球選手(外野手)。 東京都神田出身。錦華小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校)で野球を始める。立教高校(現・立教新座高校)では1年生からレギュラーとなり、中堅手として1955年の春の甲子園に出場する。1回戦で坂崎一彦、山本八郎らのいた浪華商に完封負け。浪華商はこの大会に優勝する。同年夏は都予選準々決勝で早実高に敗退した。 1956年立教大学に入学するが、2年生までベンチ入りすらできなかった。2年生時の1957年11月3日立教大学が東京六大学野球の秋季リーグで優勝を決めた日の夜に、高林は前科3犯の窃盗犯を捕獲して、神田警察署から表彰状と賞金500円を受け取る。