スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
宮内 春輝(みやうち はるき、1996年5月25日 - )は… 宮内 春輝(みやうち はるき、1996年5月25日 - )は、千葉県匝瑳市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。右投右打。北海道日本ハムファイターズ所属。 匝瑳市立市立吉田小学校時代に吉田スポーツ少年団で野球を始め、匝瑳市立八日市場第二中学校時代は硬式野球(シニアリーグ)の九十九リトルシニアに所属。 千葉県立多古高等学校ではエースとなったが、3年夏の千葉県大会は2回戦で敗退し、甲子園出場経験はなかった。 明星大学経済学部経済学科に進学し、硬式野球部に所属する。2年生の時から投球スタイルを横手投げに変更。4年秋には首都大学野球リーグ2部の最優秀選手に選出されている。大学時代の2学年上に松原聖弥。 その後は社会人野球の日本製紙石巻に進み、1年目の2019年に七十七銀行の補強選手として第90回都市対抗野球大会に出場。
越川 昌和(こしかわ まさかず、1984年11月29日 - … 越川 昌和(こしかわ まさかず、1984年11月29日 - )は、千葉県香取郡出身の元プロ野球選手(投手)。 多古高から上武大学を経て、サウザンリーフ市原に入団。 2008年にベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスに入団。同年は、主にリリーフや抑えとして活躍し、10セーブを挙げ最多セーブのタイトルを獲得した。 2009年、先発もこなすようになり6勝(リーグ10位)を挙げ、防御率は1.94(リーグ5位)と活躍。 2010年、再びリリーフとして活躍し、2008年以来の最多セーブのタイトルを獲得した。 2011年10月19日、任意引退となり退団した。 群馬退団後は軟式野球をプレー。
林 忠義(はやし ただよし、1968年3月1日 - )は、日… 林 忠義(はやし ただよし、1968年3月1日 - )は、日本の馬術選手。シドニーオリンピック・アテネオリンピック代表。北総乗馬クラブ所属。千葉県出身。千葉県立多古高等学校卒。 2000年、シドニーオリンピック障害飛越団体に携行馬スワンキーとともに出場し、11位に入った。また、個人としても予選で24位に入り、決勝進出を果たしている(最終個人順位44位)。4年後のアテネオリンピックでも代表入りし、再びスワンキーとともに出場し、個人障害飛越64位(1次予選47位8.00点、2次予選54位25.00点、3次予選途中棄権)に入っている。
相川 勝重(あいかわ かつしげ、1950年〈昭和25年〉8月… 相川 勝重(あいかわ かつしげ、1950年〈昭和25年〉8月13日 - )は、日本の政治家・政治運動家、千葉県山武郡芝山町元町長。 1950年(昭和25年)生まれ。芝山町立芝山中学校及び千葉県立多古高等学校を卒業した後、千葉県立農村中堅青年養成所を修了、その後芝山町で農業に従事する。 新東京国際空港計画(現・成田国際空港)に対し「何の相談もなく一方的に農地を奪い、空港を押しつけるのはおかしい」と成田空港問題に立ち上がり、20歳から三里塚芝山連合空港反対同盟(略称「反対同盟」)青年行動隊員として三里塚闘争を担っていた。全国町村会のウェブサイトで、空港反対運動での逮捕歴が4回に上ることを明らかにしている。
秋葉 四郎(あきば しろう、1937年(昭和12年)5月18… 秋葉 四郎(あきば しろう、1937年(昭和12年)5月18日 - )は、日本の歌人・文芸評論家・随筆家・教育者。学位は、文学博士。短歌結社「歩道」編集長、斎藤茂吉記念館館長、日本歌人クラブ顧問(第6代会長)。千葉県出身。 第一歌集『街樹』における時代の息吹を反映した新鮮な詠風から出発し、以後現在に至るまで旺盛な作歌活動を続けている歌人。1966年(昭和41年)に「歩道」に入会し佐藤佐太郎に師事。都市風景や現代の世相を鋭敏な感覚で捉えた作品に優れたものが多く、雄渾な歌風を特色とする。また、オーロラ、鯨など、従前の歌人が対象とすることのなかった海外詠も多く、作品の幅が広い。1970年代(昭和40年代後半)から十数年間、歌人佐藤佐太郎を献身的に支え、その随聞をまとめた『短歌清話』上下二巻は、佐藤佐太郎の純粋短歌の世界を余すところなく伝える好著である。
小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 19… 小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 1962年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期、日本社会党)。多古町長。 千葉県香取郡多古町喜多の農家の長男として生まれる。日本社会党の衆議院議員となった小川三男は弟。 1915年多古町立多古農学校(現千葉県立多古高等学校)卒業。家業の農業に従事していたが、1920年に日本社会主義同盟に参加。『潮流』などを発刊して普選運動をする。 1930年に多古町会議員となるが、この間に立憲民政党の政治活動に参加した。その後、鉄道省による民営バスの買収反対運動などに参加した。友人が経営する石橋計器製作所の経営にもあたった。 1947年日本社会党入党。