スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
大森 立嗣(おおもり たつし、1970年9月4日 - )は、… 大森 立嗣(おおもり たつし、1970年9月4日 - )は、日本の映画監督、俳優。 東京都生まれ。東京都立豊多摩高等学校、駒澤大学文学部社会学科卒業。 父親は舞踏家で「大駱駝艦」の創始者である麿赤兒、母は桃枝、弟は俳優の大森南朋、女優の小野ゆり子は義妹に当たる。父である麿赤兒、弟である南朋は常連俳優でもあり、たびたび出演している。 父親への意識から高校生までは表現活動をむしろ避けており、野球や空手に熱中していた。映画にもほとんど興味がなかったが、大学で偶然入った映画サークル『8ミリ同好会』に所属したことから映画に興味を持ち始め、自主映画を作り始める。大学卒業後は俳優として活動し、その後荒井晴彦監督、阪本順治監督、井筒和幸監督、ホンマタカシの短編映画など様々な作品で助監督を務める。
辻輝猛 (つじ てるたけ、1968年4月14日 - )は、日… 辻輝猛 (つじ てるたけ、1968年4月14日 - )は、日本の俳優。演劇制作舎「せんがわアクティー」代表。東京都出身。東京都立豊多摩高等学校卒業。身長178cm・体重70kg。 父親は俳優の辻萬長で、母は児童文学作家の辻邦、弟は俳優・ミュージシャンの辻敦尊。kitokito所属。 中学卒業後、高校も兼ねて文学座付属演劇研究所に28期生として入所。 1986年に映画「ブラックボード」の主役としてデビューする。文学座付属演劇研究所卒業後の1990年からはテレビドラマを中心に活動している。また、時代劇ドラマでは父とも何度か共演を果たしている。 特技は水泳・フットサル・乗馬・トランペット。趣味はバイクツーリングなど。
イッセー尾形(イッセーおがた、1952年〈昭和27年〉2月2… イッセー尾形(イッセーおがた、1952年〈昭和27年〉2月22日 - )は、日本の俳優、コメディアン。一人芝居のスタイルを確立した「日本における一人芝居の第一人者」と呼ばれる。 本名は尾形 一成(おがた かずしげ)。「一成」の名は宇垣一成に因むという。芸名の「イッセー」は、本名の音読みからつけたものである。 福岡県福岡市生まれ。父は保険会社のサラリーマンで転勤を繰り返し、まもなく北九州市小倉に移り、幼稚園から小学校1年まで長崎県佐世保市、その後また福岡市に戻り小学校3年の時、東京都杉並区に引越す。高校3年の時千葉県津田沼に移る。東京都立豊多摩高等学校卒業。 美術大学受験に失敗して浪人していた19歳の時に新宿の演劇養成所「アクターズスタジオ」に入る。
松橋 登(まつはし のぼる、1944年〈昭和19年〉11月3… 松橋 登(まつはし のぼる、1944年〈昭和19年〉11月3日 - )は、日本の俳優、声優。本名は同じ。 千葉県市川市出身。上智大学外国語学部フランス語科中退。いむらプロ、宮前寿美子事務所、アルファエージェンシーを経て、町田英子事務所に所属。 大学中退後、1967年に劇団四季に入団、同劇団のホープとして『ハムレット』『白痴』などで主役を演じ注目を浴びる。1970年には松竹の『青春大全集』で吉永小百合の相手役に抜擢されて映画界にも進出。 以降も繊細な個性を持つ美形俳優として、テレビドラマにも活躍の場を広げるが、単なる二枚目役に収まらず、その甘いマスクの内面に潜む狂気を体現したようなエキセントリックな演技でも多くの実績を残している。
小沢 直平(おざわ なおへい、1943年8月4日 - )は、… 小沢 直平(おざわ なおへい、1943年8月4日 - )は、日本の俳優。大判社所属。 本名、旧芸名:小沢 直好。別名:おざわ なおへい。 身長168.5cm。体重60kg。血液型O型。 東京都杉並区出身。東京都立豊多摩高等学校、山野美容専門学校卒。 1956年3月、劇団ひまわりに入団し、1964年10月に退団。その後は日芸企画に所属していた。現在は東京吉祥寺で剪画教室を経営。 美容師免許取得。趣味は絵画、版画。特技は剪画、落語。
柳澤 愼一(やなぎさわ しんいち、1932年〈昭和7年〉12… 柳澤 愼一(やなぎさわ しんいち、1932年〈昭和7年〉12月19日 - 2022年〈令和4年〉3月24日)は、東京府東京市(現:東京都)出身のジャズ歌手、俳優、声優、福祉活動家、ボードビリアン、作詞家である。エム・スリー所属。NPO法人日本アビリティーズ協会会長顧問。有料老人ホーム気まま館東大和名誉館長。 旧芸名は柳沢 真一、柳澤 真一。 江上トミから「在野の料理名人」と呼ばれた柳澤愛子の息子。戦時中、東京で空襲に遭って祖父母の住む新潟県長岡市に疎開するが、長岡でも空襲に遭って東京に戻る。東京都立豊多摩高等学校在学中、日本共産党の下部組織に参加するも、男女交際の乱れを嫌い、青山学院高等部に転校。