スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
池田 豪(いけだ ごう、1975年11月26日 - )は、東… 池田 豪(いけだ ごう、1975年11月26日 - )は、東京都目黒区出身の元野球選手。アメリカ独立リーグでプレー、その後MLBで通訳、スカウトなどを務めた。 大学中退後、フロリダのベースボールアカデミーでトレーニングを続けアメリカ独立リーグのフロンティアリーグのカラマズーコディアックスに入団し、外野手のレギュラーとして67試合に出場した。 翌年、ノーザンリーグのアディロンダック・ランバージャックスに移籍した。 現役引退後、伊良部秀輝投手の通訳(モントリオール・エクスポズ時代)、エクスポズスカウト、フロリダ・マーリンズスカウトを歴任し、TBSの番組『ガチンコ!』では、男どアホ大リーグの講師をつとめるなど、野球普及に取り組んでいる。
原 正俊(はら まさとし、1971年6月29日 - )は、東… 原 正俊(はら まさとし、1971年6月29日 - )は、東京都港区出身の元プロ野球選手(投手)。 帝京高に入学するが1年で中退し、日大二高に再入学。2年生の頃から140km/h台の速球で注目され、夏の西東京大会でベスト8まで進出している。指定校のあった慶大への進学を希望していた。 1990年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから5位で指名を受け、契約金と年俸それぞれ6000万円、420万円(いずれも推定)で入団が決まった。 投手として入団したが、その後外野手に転向する。しかし、一軍出場のないまま1992年をもって退団している。在籍中は同姓の主砲・原辰徳がスコアボード等で「原辰」表記となっていた。
川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は… 川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ・野球解説者。 実家は酒屋を営む。中学から内部進学した日大二高では、1986年夏の西東京大会で準決勝に先発するが、野林大樹のいた日大三高に延長13回サヨナラ負けを喫し、甲子園出場はならなかった。その年の秋に東都大学野球リーグ戦を観て知った亜細亜大学へ進学を希望、既にセレクションが終わっている時期であったが知人の伝手で矢野祐弘総監督に特別に投球を見てもらい、コントロールの良さを買われて入学が決まった。1年から登板の機会があったが同期に小池秀郎、高津臣吾両投手がおり、あまり登板機会には恵まれなかった。
渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )… 渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手)。 日大二高から日本大学へ進学、東都大学野球リーグでは2年秋からは2部リーグであった。1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名され入団。 1989年から一軍初出場を果たす。 1991年には33試合に出場する。 1996年オフに戦力外通告を受け現役を引退した。その後、球団フロント入りし、編成部((調査担当、渉外担当)に所属し、プロ野球2軍調査担当経て、MLB調査担当として、マイナーリーグを中心にスカウティング担当し、2000年オフに退団。2001年からは、スポーツマネジメントを手掛ける株式会社SPORTS BIZに務める。
相馬 勝也(そうま かつや、1963年5月11日 - 201… 相馬 勝也(そうま かつや、1963年5月11日 - 2013年6月2日)は、東京都荒川区出身のプロ野球選手(捕手)・指導者。愛称は「バニー」。 日大二高では2年秋に準決勝まで進むが早実の荒木大輔に完投で敗れ、3年春・夏(西東京)ともに都大会ベスト4、1981年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。顔がラビット関根に似ていたため、ラビというニックネームで親しまれた。 強肩の捕手として期待され、1983年には秋山幸二、安部理などと共にカリフォルニアリーグのサンノゼ・ビーズに野球留学した。留学時には、引率した和田博実によって「バニー・ソウマ」(Bunny Soma)の英語名が付けられた(和田博実の項も参照)。
五十嵐 信一(いがらし しんいち、1959年8月29日 - … 五十嵐 信一(いがらし しんいち、1959年8月29日 - )は、東京都杉並区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。愛称はシンさん、シン。 日大二高では、入学間もなくより一貫して遊撃手の正選手として活躍。2年夏の西東京大会では決勝へ進出し、甲子園で優勝することになる桜美林高に敗れた。1977年の西東京大会も準決勝まで進むが明大中野高に敗退。 同年オフに、ドラフト外で日本ハムファイターズに入団。二軍暮らしが長かったが、1979年4月には、「空白の一日」で入団した江川卓が二軍で初登板した試合で江川に初本塁打を浴びせたことで有名になる。 1981年には二塁手として一軍に定着、菅野光夫、鍵谷康司と定位置を争う。
神山 修(かみやま おさむ、1947年 - )は、元アマチュ… 神山 修(かみやま おさむ、1947年 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは投手。 日大二高では、2年夏の都大会準決勝で大矢明彦が正捕手の早稲田実に敗れた。3年生時に1965年夏の都大会でエースとして活躍。決勝で日大三高の佐藤道郎と投げ合って完封勝利、甲子園への出場を果たした。同年の夏の甲子園では、1回戦で岡山東商の平松政次と投げ合った末に完封勝ちを果たしたが、2回戦で秋田高校に敗れた。同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから7位指名されたが入団を拒否し、日本大学に進学する。 大学に進学してからは三塁手に転向し、東都大学野球リーグにおいて、1969年の春季、秋季のリーグ優勝に貢献し、同年の全日本大学野球大会にも出場し、チームは準優勝に輝いた。
井上 善夫(いのうえ よしお、1941年9月27日 - 20… 井上 善夫(いのうえ よしお、1941年9月27日 - 2019年12月31日)は、山梨県上野原市出身のプロ野球選手(投手)。 日大二高では2年生でエースとなり、1958年秋の東京地区大会決勝に進む。日大三高の千原陽三郎と投げ合い1-0で完封、翌1959年の春の選抜への出場を決める。選抜では、1回戦でこの大会準優勝の県岐阜商に0-9で大敗。県岐阜商には高木守道がいた。同年の夏の選手権にも出場。準々決勝に進出するが、東北高の嶺岸征男、波山次郎両投手の継投の前に2-3で惜敗。8月末からは全日本高校選抜の一員として石黒和弘、朝井茂治らとアメリカ西海岸・ハワイ遠征を果たす。秋の東京国体では決勝で平安高の藤野隆司に投げ勝ち、初優勝を飾った。
金 博昭(こん ひろあき、1939年1月7日 - )は、東京… 金 博昭(こん ひろあき、1939年1月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 帝都育英工を1年で中退し、再入学した日大二高から明治大学、日本大学へ進学したが、それぞれ一年で中退。 1960年に、当時は準硬式野球部であった立正佼成会へ進んだ。翌年にチームが硬式に転向し、1963年には熊谷組、1964年にはサッポロビールの補強選手として都市対抗に出場。1965年の都市対抗にエース若生和也を擁しチーム初出場。大会史上に残る大応援団のもと、1回戦で三重交通を降すが、2回戦で松下電器に敗れた。この大会では打率.528で首位打者となる。また1967年には、監督兼選手としてチームを率いた。同年都市対抗に再度出場し、打率.444を記録し優秀選手となった。
妻島 芳郎(つましま よしろう、1938年10月9日 - )… 妻島 芳郎(つましま よしろう、1938年10月9日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)。 日大二高では2年次の1955年、秋季関東大会都予選決勝に進出するが、日大三高のエース並木輝男に抑えられ敗退。3年次の1956年には夏の甲子園都予選4回戦で成蹊高に敗れ、甲子園には出場できなかった。卒業後は1957年に日本通運浦和へ入社し、古谷法夫コーチの指導を受ける。1958年の都市対抗に出場し、1回戦でエース堀本律雄を好リリーフ、優勝候補の日本生命を降す。1960年からは稲葉誠治監督の指導も受け、1961年の都市対抗では2回戦(初戦)に先発で起用されるが、電電九州に敗退。この時のチームメイトには渋谷誠司がいた。
鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明… 鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 旧制日大二中、日大高工、川崎トキコ、国民野球連盟の大塚アスレチックスを経て1950年に新設された西日本パイレーツへ入団。同年退団。