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伊藤 裕作(いとう ゆうさく、1950年2月25日 ‐ )は… 伊藤 裕作(いとう ゆうさく、1950年2月25日 ‐ )は、日本の作家、風俗ライター、歌人。 三重県津市芸濃町生まれ。三重県立津高等学校卒業後、寺山修司に憧れて早稲田大学教育学部社会科に入学し、7年かけて卒業。在学中は早稲田大学短歌会に所属し短歌を作る。卒業後は明石賢生の自販機本出版社「エルシー企画」に出入りするようになり、風俗を主たるフィールドにした文筆業に就く。のち法政大学大学院に社会人入学し、戦後の娼婦小説について『娼婦学ノート』としてまとめ、その後『戦後の娼婦小説の系譜と寺山修司の娼婦観』という修士論文を書いて、国際日本学インスティテュートの修士課程を修了。この論文を含めた『私は寺山修司・考 桃色篇』を上梓する。
長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月… 長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、日本の俳人。本名・直次郎。 父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。 俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。
鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月1… 鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月16日 - 1977年(昭和52年)10月4日) は、三重県津市出身の歌人。 その後に白駒の歌誌「ROVE」と合同し、「日輪」と改題して発刊したが当局の圧力を受け創刊即終巻となった。(伊勢平野 三重歌壇回顧録より) 「歌人稲森宗太郎」年譜によると、当時の一中(現 津高等学校)には伊賀出身の稲森宗太郎と同時代に鬼頭白雨も在学しており、中谷太郎、岩津資雄、城多又兵衛、後藤義之進らがおり、一級下には寺崎浩、中谷悌吉。また二級上には文学を志す中谷孝雄がいた。在学中には岩津資雄らと合同歌集「青白き薔薇」を発刊とあり、鬼頭白雨とも親交が深かったことが想像できる。
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉… 稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。 1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた。 早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった。