スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
福田 岳洋(ふくだ たけひろ、1983年4月9日 - )は、… 福田 岳洋(ふくだ たけひろ、1983年4月9日 - )は、大阪府高槻市出身の元プロ野球選手(投手)。 京都府の大谷高校から、一浪を経て高知大学教育学部に進学し四国地区大学リーグで1年秋には1部リーグ最多勝で優勝に貢献した。 大学卒業後は一旦は野球を断念し、スポーツ科学を専攻するために京都大学大学院へ進学したが野球への思いが断ちきれず、大学院在籍中に社会人野球のクラブチームであるRitsベースボールクラブに加入し、2007年の全日本クラブ野球選手権に同チームの初出場に貢献した。 2008年に四国・九州アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズのトライアウトに合格し入団した(大学院は休学、その後横浜入団前に中退した)。
波留 敏夫(はる としお、1970年5月25日 - )は、京… 波留 敏夫(はる としお、1970年5月25日 - )は、京都府京都市東山区(現:山科区)出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投右打)、コーチ。 現役時代は横浜ベイスターズの上位打線で闘志を剥き出しにしたプレーを見せ、「ハマの核弾頭」「突貫小僧」の愛称を持った。 大谷高等学校では2年秋の府大会準決勝で伊藤智仁が先発した花園高に勝つも決勝で平安高に延長10回の末に惜敗、2位決定戦では花園高の伊藤との再戦に敗れて近畿大会へは進出できず。社会人野球の熊谷組へ入部。1年目秋の日本選手権には先発出場。1992年の都市対抗野球で準優勝。翌年も出場して優秀選手賞獲得。同年は社会人ベストナイン遊撃手に選出。
北村 俊介(きたむら しゅんすけ、1967年7月6日 - )… 北村 俊介(きたむら しゅんすけ、1967年7月6日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 京都府の大谷高卒業後は家業を手伝っていたが、1987年秋に6年ぶりに開催された中日ドラゴンズの新人テストに参加し、ただ1人の合格者となる。オフにドラフト外で入団。翌年、練習生から支配下選手に昇格。 1996年3月、嶋田章弘との交換で近鉄バファローズへ移籍。1997年限りで現役を引退。その後は佐川急便軟式野球部で選手、監督。 数年前まで、NPO法人日本少年野球指導者協会のKS野球塾塾長として子供たちに野球の指導をしていた。 俊足が武器の左打ちで、打席ではかなりオープンスタンスに構えていた。
堀井 恒雄(ほりい つねお、1958年11月15日 - )は… 堀井 恒雄(ほりい つねお、1958年11月15日 - )は、京都府城陽市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。1984年から1990年の登録名は「堀井 幹夫」(読み同じ)。 実家は1887年代々続く宇治茶の栽培農家で、幼少の頃から玉露や煎茶を当たり前のように飲み、ジュースは飲んだことが無かった。「体を動かすのが好きで」と小学校まで柔道、中学ではクラスメートに誘われて野球部に入部し、入部後間もなく肩の強さを買われ、投手に転向。ノーヒットノーランを達成するなど才能を開花させ、大谷高校卒業後の1977年に大阪商業大学へ進学。 関西六大学リーグでは1年次の同年からマウンドに上がったが、3年次の1979年にはベンチ入りメンバーからも外れてしまった。
足立 兼敏(あだち かねとし、1947年8月26日 - 20… 足立 兼敏(あだち かねとし、1947年8月26日 - 2022年4月24日)は、元アマチュア野球選手、監督である。 大谷高等学校では、1965年の第37回選抜高等学校野球大会に出場した経験がある。高校卒業後に龍谷大学に進学。 コーチを経て1979年秋から2001年までに龍谷大学の監督を務め、1998年には大学選手権で河端龍を擁して30年ぶりのベスト4に進出したほか、山本樹、木元邦之らをプロへ送り出した。2013年10月から大谷高等学校の監督を務めている。
青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年… 青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年〉 - 1945年11月1日〈昭和20年〉)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。 1930年に立命館大学野球部に所属。1932年から1933年頃、旧関西六大学リーグ戦での快速球は京都の野球界を風靡しており、京都商業学校時代の沢村栄治から目標とされる程の存在だった。また、島秀之助も戦前で最も印象に残った選手の一人として、青柴憲一の名を挙げている。大学時代のチームメイトに後藤正・村川幸信(社会人野球の明電舎でもバッテリーを組んだ)がいる。 立命館大学を中退して、渡辺商店や東洋ベアリングでプレー。1934年のベーブ・ルース率いる全米選抜チーム来日時には、11月8日の湯の川球場(北海道函館市)での試合に全日本選抜チームの投手として先発。
村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年… 村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年不明)は、香川県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)。 高松中学(現・香川県立高松高等学校)在学中には、梶原英夫(のち東大野球部でプレー。1943年に戦病死)とバッテリーを組んでいたが、野球に熱中する余り、学業が疎かになり落第。仕方なく高松中を中退し、大谷中学校(京都府)の4年生に編入。ここで、当時一塁手だった青柴憲一(のち東京巨人軍に在籍)と出会い、青柴を投手に転向させ、たちまち名バッテリーとして京都府下では評判になった(甲子園出場は果たせなかった)。 1931年に青柴と共に、前年(1930年)に旧関西六大学野球連盟に加盟したばかりの立命館大学野球部に所属。