スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
新家 颯(しんや そう、2003年8月14日 - )は、和歌… 新家 颯(しんや そう、2003年8月14日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。NPBでは育成選手であった。 田辺市立会津小学校1年時にあいづクラブで野球を始め、田辺市立衣笠中学校では軟式野球部に所属した。 和歌山県立田辺高等学校では1年冬に左肘を手術。2年時はリハビリのため公式戦未登板だったが、リハビリ中に大竹耕太郎の投球フォームを参考にした新フォームを習得し、変化球のキレとコントロールが大きく向上した。3年夏の和歌山県大会は初戦敗退したものの、和歌山工を相手に9回3失点完投し、12三振を奪った。その試合を小園健太(市和歌山)の視察に訪れていた広島東洋カープスカウトの鞘師智也の目に留まり、ドラフト指名に繋がった。
春日 伸介(かすが しんすけ、1984年5月18日 - )は… 春日 伸介(かすが しんすけ、1984年5月18日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(内野手)。 和歌山県立田辺高等学校時代は、主にキャッチャーとして出場していたが、肩を脱臼したためにファーストへコンバートするも、第84回全国高等学校野球選手権大会・和歌山県大会では最終的にキャッチャーとして出場。4番・キャプテンとして県ベスト4の原動力となった。2002年のドラフト会議で西武ライオンズから5巡目に指名され、内野手として入団。高校通算28本塁打。 プロ入り後は、伸び悩み、2軍でも本塁打を打つことが出来ずに退団。 引退後は関西の専門学校に入学。理学療法士の資格を取得し、卒業後に就職。
藤井 了(ふじい さとる、1979年5月5日 - )は、和歌… 藤井 了(ふじい さとる、1979年5月5日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(投手)。 和歌山県立田辺高等学校から法政大学に進学。2学年上に安藤優也、1学年下に土居龍太郎らがおりリーグ戦登板は少なかったが、3年秋の対明大2回戦で救援登板すると、主将の廣瀬純のサヨナラ安打で勝利投手となった。 大学卒業後の2003年に渡米し、独立リーグであるセントラル・ベースボール・リーグのサンアンジェロ・コルツと契約するも、1試合(1イニング)のみの登板で自由契約となった。 その後、2005年にオランダに渡り、現地のプロ野球リーグであるホーフトクラッセのスパルタ・フェイエノールト(英語版)と契約。2シーズン在籍した。
西岡 良洋(にしおか よしひろ、1961年6月28日 - )… 西岡 良洋(にしおか よしひろ、1961年6月28日 - ) は、大阪府堺市北区出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 田辺高校では1年夏に3年生エース・木下透を擁して県大会優勝、紀和大会で先発出場するも智弁学園の山口哲治に抑えられて敗退。3年では外野手兼控え投手として、双子の兄である西岡良展(早大→住金→NOMOベースボールクラブバッテリーコーチ)らと共に、1979年の夏の県大会準決勝に進む。田辺商と対戦し、この試合では救援投手として兄弟でバッテリーを組むも敗退。この年は県大会を勝ち抜いた箕島高が甲子園春夏連覇を果たしている。 1979年オフに、ドラフト外で西武ライオンズに入団。 最初の2年間は二軍で過ごし、3年目の1982年から一軍で外野手として起用される。
木下 透(きのした とおる、1959年8月31日 - )は、… 木下 透(きのした とおる、1959年8月31日 - )は、和歌山県出身のプロゴルファー、元プロ野球選手(投手)、右投げ右打ち。野球選手時代は181cm、77kg、現在は181cm、88kg。 1977年、田辺高の3年の時、同校のエースとして第59回全国高等学校野球選手権大会の和歌山県大会に参加。決勝で同年春の第49回選抜高等学校野球大会を制した箕島高と対戦する。この時、箕島のエース・東裕司(三菱自動車水島)は、初戦から連続無失点を記録していたが、大会直前に箕島高校のある有田市をコレラ禍が襲い、市内を消毒、不用意な外出を禁じられていたため、箕島は全体的に練習が不足していた。そのような事情もあったが、木下は箕島打線を9回まで零封、東もまた田辺を9回まで零封し連続無失点を42とした。
上田 重夫(うえだ しげお、1939年7月27日 - )は、… 上田 重夫(うえだ しげお、1939年7月27日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手。 田辺高校から1961年に大洋ホエールズへ入団。1963年に引退。
岩本 堯(いわもと たかし、1930年4月20日 - )は、… 岩本 堯(いわもと たかし、1930年4月20日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ・監督。 旧制田辺中学校では2年次の1947年に一塁手・控え投手として春の選抜へ出場。1回戦で富田中から22点を奪い快勝。この試合で5回からリリーフに立ち甲子園初登板を果たすが、11四球を与えている。2回戦では先発を任され、城東中の前田祐吉と投げ合い、先制するが9回に追いつかれて延長11回サヨナラ負けを喫した。夏の大会が終わると、野球部を退部して陸上競技部に入る。陸上部では、コーチに来た南部忠平から「野球より陸上競技でオリンピックを目指したほうがよい」と勧められたという。1ヶ月ほどで野球部に復帰すると、3年次の1948年には右翼手に回り、2年連続で春の選抜へ出場。
岩本 堯(いわもと たかし、1930年4月20日 - )は、… 岩本 堯(いわもと たかし、1930年4月20日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ・監督。
南 温平(みなみ おんぺい、1930年1月6日 - )は、和… 南 温平(みなみ おんぺい、1930年1月6日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。 旧制田辺中学校では遊撃手として活躍。2年次の1947年に春の選抜へ出場。1回戦で富田中から22点を奪い快勝。しかし2回戦では城東中に延長11回サヨナラ負け。3年次の1948年にも2年連続で春の選抜へ出場。1回戦は岐阜商を大差で降すが、準々決勝はこの大会に優勝した京都一商の北本重二に抑えられ敗退。チームメートでは右翼手の岩本尭、二塁手の寺本哲治がプロ入りしている。 卒業後は社会人野球の海南日東紡績を経て、1949年夏に読売ジャイアンツが初めて行った選手公募を受験し、大阪地区でただ一人合格し入団。1951年には一軍初出場を果たすが、活躍の場は少なかった。
寺本 哲治(てらもと てつじ、1929年9月18日 - 20… 寺本 哲治(てらもと てつじ、1929年9月18日 - 2010年2月 )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。 田辺高を経て、1949年に読売ジャイアンツに入団。この年より巨人は二軍制を敷いたが、寺本は二軍で打率・本塁打・打点・盗塁の四冠王を獲得する。1950年には初めて一軍に昇格し、7月19日の対大洋ホエールズ戦での先発出場を始めとして7試合で二塁手を守った。その後、1951年に8試合、1954年に1試合の代走出場に終わり、1954年限りで現役を退いた。 引退後は、報知新聞社大阪本社営業局に勤めている。 できたばかりの二軍に入れられるが、一軍を目指して猛練習に励み、巨人における二軍選手の心構えの基盤を築いたと、評価されている。