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山田 徹一(やまだ てついち、1921年〈大正10年〉3月1… 山田 徹一(やまだ てついち、1921年〈大正10年〉3月12日 - 1997年〈平成9年〉2月28日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 岡山県岡山市で生まれる。1940年(昭和15年)関西中学校(現関西高等学校)を卒業した。会社経営を行う。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に全国区から公明党公認で出馬して当選。1971年(昭和46年)6月の第9回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。その間、創価学会総務、公明党中小企業局長、同統制委員長、参議院公明党議員団長、参議院懲罰委員長、公明党財務委員長、同岡山県本部長、国土開発幹線自動車道建設審議会委員などを務めた。
田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 19… 田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 1975年11月3日)は、岡山県岡山市小畑町出身の政治家。 1897年9月21日、岡山市小畑町に生まれる。大西姓を名乗っていたが、後に田中姓となる。1918年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)を卒業する。 1934年、岡山市会議員に当選する。その後、市会議長を務め、1939年、岡山県会議員となる。 1947年、公選による初代岡山市長に就任し、1951年まで1期務める。 退任後の1952年、播備商事を設立し、会社経営に尽力した。 活躍が評価され、勲五等双光旭日章が授与された。 1975年11月3日死去。享年79。
行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月1… 行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月10日 - 1945年(昭和20年)3月5日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県和気郡香登村香登西(香登町香登西、備前町を経て現備前市香登西)で、行吉百三郎の息子として生れた。行吉家は屋号「戎屋」として瓦製造を家業としていたが、百三郎はかけごとが好きなことなどから事業に失敗し、角治が3、4歳ころに岡山市に移り食べ物屋「三子屋ぜんざい」を開いた。角治は関西中学校(現関西高等学校)で学んだが、素行不良で中退した。その後、遊び人の仲間となった。 岡山で土木請負業「山崎組」を営む。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で横山泰造の選挙運動に加わったことが契機で政治家に関心を持つようになった。
松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年… 松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年)11月20日(ただし、戸籍上は同年12月28日) - 1974年(昭和49年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。旧姓は片岡(断絶した外祖父の松本家を再興した際に改姓した)。 岡山県出身。片岡房太の長男として生まれる。1910年、祖父松本礼造の跡を承け家督を相続した。 関西中学校、第六高等学校、東京帝国大学法科大学を経て、1911年に文官高等試験に合格して同年の大学卒業とともに内務省に入省する。愛媛県属。神社局長を経て1926年に静岡県知事に任ぜられる。1927年、立憲民政党系とみなされて、立憲政友会政権が行った地方官人事で鹿児島県知事に転任。
今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(… 今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(明治17年)2月1日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。貴族院議員、朝鮮総督府政務総監、逓信次官。旧姓・国塩。 岡山県赤坂郡神田村(赤磐郡鳥取中村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)出身。旧岡山藩士・国塩与三郎の三男として生まれ、磐梨郡佐伯北村(赤磐郡吉井町を経て現:赤磐市)今井田善十郎の養嗣子となる。関西中学校、第六高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信属となり逓信省通信局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。 1910年4月、通信事務官・大阪中央郵便局長に就任。以後、神戸逓信管理局総務部長、逓信省電気局管理課、東部逓信局経理部規画課長などを歴任。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。