スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
片岡 光宏(かたおか みつひろ、1962年3月22日 - )… 片岡 光宏(かたおか みつひろ、1962年3月22日 - )は、広島県府中市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。 広島県・府中市立第二中学校卒業後、野々村直通監督の熱心な勧誘があり、広島商や崇徳高校といった広島県内の強豪チームの誘いを辞退し、「僕の力で甲子園に行ってみせる」と、地元・府中市立府中東高等学校に入学。 府中東高校は、前身の私立北川工業時代には高橋一三や伊原春樹らを輩出した広島県東部の強豪だったが、片岡の頃は低迷し、片岡入部時の部員は2人で休部同然。片岡入部で甲子園が現実味を帯びて来たため、ベンチ入りピタリの部員15人に増えたが、そのうち野球未経験者が6人いた。野々村は「片岡を勧誘してとれたことが僕の野球の出発点」と話している。
飯山 正樹(いいやま まさき、1953年10月1日 - )は… 飯山 正樹(いいやま まさき、1953年10月1日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 私立広島県北川工業高等学校では、主戦投手になったのは三年からで、速球を中心とする本格派。 1971年夏の県大会では広島工に三回戦で敗れたが、興譲館高、関西高とワンヒット・ゲームを二度マーク、一試合平均の奪三振は10、二試合連続15奪三振を記録するなどスピードボールは有名になっていた。カーブも武器としていた。 1971年のドラフトで南海ホークスから2位で指名され入団。 一軍公式戦に出場することはなく、退団した。
伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、… 伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、広島県甲奴郡上下町(現・府中市)生まれ出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。 ニックネームは「ハル」。 6人兄弟の次男で女4人、男2人の4番目であった。 上下中学校卒業後、1964年に北川工業高校へ進学。古葉竹識の実弟である古葉福生監督の指導を受け、3年次の1966年夏の甲子園県予選では4番打者・三塁手として活躍。福山工との準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商の山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。 高校卒業後は1967年に芝浦工業大学へ進学し、東都大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。
高橋 一三(たかはし かずみ、1946年6月9日 - 201… 高橋 一三(たかはし かずみ、1946年6月9日 - 2015年7月14日)は、広島県府中市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 府中西小学校→第二中学校を経て、1962年に北川工業高校へ進学。2年次の1963年の秋季中国大会県予選ではエースとして決勝に進み、尾道商の小川邦和と投げ合い完封負けを喫するが、中国大会への出場権を獲得。しかし準々決勝で佐々木誠吾を擁する浜田高に敗れ、3年次の1964年春の選抜への出場を逃す。同年夏の大会も県予選で敗退し、甲子園には届かなかった。 1964年11月4日に読売ジャイアンツへ入団。この入団は当時の中国地区担当スカウトの木戸美摸の尽力によるものである。