スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
高木 啓士郎(たかき けいしろう、2001年9月3日 - )… 高木 啓士郎(たかき けいしろう、2001年9月3日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 広島県広島市出身。母と姉の影響で小学1年生からバレーボールを始めた。しかし、入学当初は野球が好きだった。入部希望者多数で野球部に入部出来なかったためバレーボールを始め、次第にバレーボールに熱中していった。中学1年生のときにリベロに転向した。 2017年、広島の強豪である崇徳高等学校に進学し、1年時から出場機会を得た。1学年修了後、ユース日本代表(U-18)の合宿に召集された。3年時の2019年、第16回U19世界選手権に出場。 2020年、東海大学に進学。3年時の2022年、関東大学春季リーグと東日本大学選手権大会(東日本インカレ)で優勝。
勝岡 将斗(かつおか まさと、1996年7月3日 - )は、… 勝岡 将斗(かつおか まさと、1996年7月3日 - )は、日本の元男子バレーボール選手である。 広島県福山市出身。兄の影響を受けて小学1年生の頃バレーボールを始める。 崇徳高等学校を経て、2015年、大阪産業大学に進学。2017年、U23日本代表に選出され、アジアU-23選手権に出場。チームの準優勝に貢献し、自身もベストアタッカー賞を受賞した。同年の世界U-23選手権にも出場した。 2018年、ウルフドッグス名古屋の入団内定となる(内定当時のチーム名は豊田合成トレフェルサ)。内定選手として2018-19シーズンのリーグ戦にも出場した。 2019年、大学卒業後、ウルフドッグス名古屋に入団。同年、ユニバーシアード日本代表としてユニバーシアード競技大会に出場した。
平田 亮介(ひらた りょうすけ、1995年5月18日 - )… 平田 亮介(ひらた りょうすけ、1995年5月18日 - )は、日本の元男子プロバレーボール選手である。 広島県福山市出身。小学6年生のときに、親の影響でバレーボールを始める。 崇徳高等学校、中央大学を経て、2017年、V・プレミアリーグ(当時のVリーグ1部リーグ)に所属するFC東京の内定選手となった。 2018年、大学卒業後に、FC東京に入団。2018-19シーズン、V1リーグ戦デビューを果たす。 2022年6月、FC東京のチーム譲渡により誕生したプロクラブ・東京グレートベアーズに全体移籍。 2023年、2022-23シーズンをもって現役を引退し、同チームのクラブスタッフに就任した。
井上 航(いのうえ わたる、1994年7月5日 - )は、日… 井上 航(いのうえ わたる、1994年7月5日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 広島県広島市出身。小2の頃、友人の誘いがきっかけでバレーボールを始める。 崇徳高等学校、東海大学を経て、2016年12月に、JTサンダーズ(現・JTサンダーズ広島)に内定選手として入団。リーグ戦終了後の第66回黒鷲旗大会でチームの優勝に貢献し、自身も若鷲賞(最優秀新人賞)を受賞した。 2017/18シーズン、V・プレミアリーグにて最優秀新人賞を受賞。 2024年5月、JTを退団。7月に9人制のJT東京ブラスターズへの加入が発表された。
合田 心平(ごうだ しんぺい、1992年9月23日 - )は… 合田 心平(ごうだ しんぺい、1992年9月23日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、バレーボール指導者である。 広島県神石郡出身。父親が監督をしていた影響や兄がプレーしていた影響を受けて、小学校に入った頃からバレーボールを始めた。学生時代、小学5年の頃から下宿をしてのバレーボール人生が続いた。 崇徳高等学校、大阪産業大学でのプレーを経て、大学卒業前に、パナソニックパンサーズから練習生としてプレーする機会が与えられた。練習生としての3ヶ月間のプレーを経て2015年4月にパナソニックに正式入団。パナソニックでは、日本代表セッターの深津英臣と関田誠大がいたため出場機会に恵まれなかった。 2018年5月、黒鷲旗が終わった頃に移籍の話が出て、長く悩んだ末に、地元のチームでもあるJTサンダーズ広島への移籍を決断。
ベゼラ・ダシルバ・サムエル・ジュニオル(英: BEZERA … ベゼラ・ダシルバ・サムエル・ジュニオル(英: BEZERA DA SHIRUBA SAMUERU JUNIOR 、1987年7月23日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。Vリーグ登録名はベゼラ・ジュニオル。 本名表記およびラテン表記はJT公式に準拠する。なおブラジルポルトガル語ではサムエル・ベセーラ・ダ・シウヴァ・ジュニオル(Samuel Bezerra da Silva Júnior)。 父親がブラジル人で、母親が日系三世ブラジル人で、ベゼラ自身は現在日本に帰化している。ブラジル・サンパウロ市で生まれ、父親の自動車関連企業での仕事のため、9歳から広島県安芸郡府中町で暮らす。 幼い頃からサッカーをしており、府中町立府中緑ヶ丘中学校入学後も当初はサッカーをしていたが足を痛め断念した。
内冨 寛法(うちとみ ひろのり、1980年4月5日 - )は… 内冨 寛法(うちとみ ひろのり、1980年4月5日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。当初は内富姓登録であった。 広島県広島市出身。実姉の影響で古市小学校4年次よりバレーボールを始める。安佐南中学校卒業後、名門崇徳高校へ入学、樋内明から指導を受けた。 1999年、東亜大学に進学し、オポジットとして活躍した。同級生に日高誠。2002年4年次の全日本インカレで3位になった。また大学選抜としてアジア東部地区バレーボール選手権大会に出場した。 2003年大学卒業後、日高と共にJTサンダーズへ入団。1年目から出場機会を得て、プレミアリーグ準優勝に貢献している。しかし、直弘龍治がオポジットのポジションを掴んで以降、出番を減らしていくこととなった。
田辺 修(たなべ おさむ、1979年4月10日 - )は、日… 田辺 修(たなべ おさむ、1979年4月10日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 広島県広島市出身。実兄の影響で安北小学4年(安北スポーツ少年団)よりバレーボールを始める。 崇徳高校を経て、東亜大学を卒業後、2002年にVリーグの東レアローズへ入団した。 第11回Vリーグでベストリベロ賞を獲得、全日本代表入りを果たし、2005年ワールドリーグに出場。 2009年にはVプレミアリーグでレシーブ賞、黒鷲旗大会でベストリベロ賞を獲得し、全日本代表に再選出。2009年ワールドグランドチャンピオンズカップに出場し、日本の銅メダル獲得に貢献した。 2010年4月2日の堺戦で左足小指を骨折し、全治3ヶ月の怪我を負った。
臺 光章(うてな みつあき、1976年1月1日 - )は、日… 臺 光章(うてな みつあき、1976年1月1日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 広島県広島市出身。小学校5年の時に地元のスポーツクラブ・八木スポーツ少年団に入り[要出典]、バレーボールを始める。高校は地元名門の崇徳高等学校へ進学し、3年次には教育実習で来ていた本多洋から影響を受けた[要出典]。その後、中央大学へ進学する。 1998年、日本たばこ産業 (JT) に入社し、JTサンダーズに入団。同期に苅谷淳司、河野裕輔、下田悟、齋藤学。順調に試合出場を重ね、1999年2年目からチームキャプテンを務めた。2001年、黒鷲旗で優勝しベスト6。同年のアジア選手権で全日本に選出されて金メダルを獲得し、2002年釜山アジア大会では銅メダル獲得に貢献した。
濱田 義弘(はまだ よしひろ、1972年4月22日 - )は… 濱田 義弘(はまだ よしひろ、1972年4月22日 - )は、日本のバレーボール指導者である。 崇徳高等学校、大阪商業大学を経て、1995年、ユニチカ・フェニックスのコーチに就任し、5シーズン在籍した。2001年からパイオニアレッドウィングスのコーチを4年間務め、2005年に久光製薬スプリングス(現・久光スプリングス)に移籍し眞鍋政義監督の下でコーチを務めた。コーチとして在籍した3チームでそれぞれリーグ優勝も経験する。2009年、眞鍋の日本女子代表監督就任に伴い久光製薬の監督に昇格する。 2009/10シーズン、久光製薬の監督として、2年ぶりの優勝を目標に掲げ、長所であるレシーブとつなぎの強化をそのまま続け、パワーとスピードの改革を行う方針を打ち出した。
本多 洋(ほんだ ひろし、1971年6月26日 - )は、日… 本多 洋(ほんだ ひろし、1971年6月26日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、指導者。 現崇徳高等学校バレーボール部監督。 広島県広島市出身。崇徳高校、東海大学出身。1993年大学4年次にはキャプテンを務め、大学四冠を達成した。 1994年4月、日本たばこ産業(JT)入社、JTサンダーズへ入団した。オールラウンダーなエースとして活躍するも、肩の故障の影響から1999年に引退、その後は社業に専念していた。 その後退社し、崇徳高校教諭へ転身し、同校バレー部を指導している。2012年には全日本男子ユース代表監督に就任しアジアユース3位、翌2013年ユース世界選手権出場を獲得した。
寺廻 太(てらまわり ふとし、1958年1月22日 - )は… 寺廻 太(てらまわり ふとし、1958年1月22日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、指導者。広島県安芸郡坂町出身。元バレーボール全日本男子監督。明治大学政経学部政治学科卒業。マネジメント契約先はスポーツビズ。 崇徳高のエースプレーヤーとして、1975年、春高バレー・高校総体・国体の高校三冠を達成。明治大学ではセンタープレーヤーとして活躍し、1980年日本電気(現NEC)男子バレーボール部に入部。日本リーグでオールラウンドプレーヤーとして活躍した。 1987年コーチに専任し、翌1988年、監督に昇格するとチームをVリーグ3度、全日本選手権4度の優勝に導き、若き名将としてその名を馳せる。 1996年アトランタ五輪後、全日本男子の復活を期す切り札として、抜群の統率力と斬新さが評価され全日本監督に招聘される。
小田 雅志(おだ まさし、1955年6月7日 - )は、日本… 小田 雅志(おだ まさし、1955年6月7日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、バレーボール指導者。広島県広島市出身。 現進徳女子高等学校バレー部監督。 1971年、バレーボールの名門崇徳高校に入学。2年時に全国高等学校バレーボール選抜優勝大会優勝を経験。その後1974年中央大学に進学。 大学を卒業後1978年、日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支社)に入社。専売広島バレー部(現JTサンダーズ)に入部。1980年、第13回日本リーグより猫田勝敏の後を受け、正セッターとなる。 1984年からコーチ兼任選手として活躍、1988年監督に就任。1994年Vリーグ創設後も引き続き監督を務め、1999年に退任。
西本 哲雄(にしもと てつお、1950年12月16日 - )… 西本 哲雄(にしもと てつお、1950年12月16日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、バレーボール指導者。1972年ミュンヘンオリンピック金メダリスト。 広島県広島市宇品(現南区宇品)出身。中学まではサッカー選手で、バレーボールは未経験だったが、崇徳高校入学後にバレーボール部に入部。体の大きさを買われてエースアタッカーとして鍛えられ、3年時の1968年、セッター・主将の米田一典らと高校総体で中大附属高校を降し優勝。同年国体では、柳本晶一がまだアタッカーだった大商大付属高校と当時のライバル校を降し優勝、崇徳初の高校2冠の原動力となった。(春高バレーは1970年から) 1969年、高校卒業後、先輩・猫田勝敏らのいた地元チーム・専売広島(現JTサンダーズ)入りし、猫田と共にチームを牽引した。
米田 一典(よねだ かずのり、1950年6月24日 - 20… 米田 一典(よねだ かずのり、1950年6月24日 - 2012年2月26日)は、日本のバレーボール元選手・指導者。元全日本女子バレーボールチーム監督、チャレンジリーグ・仙台ベルフィーユ監督を歴任。広島県広島市安佐南区出身。 崇徳高校3年生時の1968年高校総体で、セッター・主将として中大附属高校を降し優勝。同年国体では柳本晶一擁する大商大付属高校を降して優勝し、2冠を達成した。 1973年、法政大学在学中に日立女子バレーボール部にコーチとして就任。1975年、監督に昇格し日立を常勝チームに育て上げた。 1974年には全日本女子チームコーチに就任、山田重雄監督の片腕として活躍し、1976年モントリオールオリンピック、1977年W杯の金メダル獲得に貢献した。
猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 198… 猫田 勝敏(ねこだ かつとし、1944年2月1日 - 1983年9月4日)は、日本の元男子バレーボール選手。広島県広島市安佐南区古市(旧・安佐郡古市町)出身。 1964年東京オリンピックから1976年モントリオールオリンピックまで、4大会連続でオリンピック出場(日本のバレー男子選手で最多)を果たし、金・銀・銅の3個のメダルを獲得、「世界一のセッター」と称された。また、そのトスの正確さから、当時世に知られ始めたばかりのコンピュータから名を取って「日本のコンピュータ猫田」とも呼ばれた。 情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、大松博文と並んで3人のうちの1人に数えられた。
森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - … 森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - )は、日本の元バレーボール選手。元バレーボール全日本選手。 広島県出身。崇徳高等学校3年の時、ジャンプ力のある強打のエースアタッカー兼主将として国体優勝。1960年、中央大学1年時の、第1回日ソ対抗バレーで全日本に初選出された。その後も6人制へ切り替え期の全日本選手として1962年第5回世界選手権(モスクワ)、第4回ジャカルタアジア競技大会(金メダル)などで活躍した。中大4年時には大学王者の勢いで当時の最強チーム・日本鋼管を天皇杯(全日本総合選手権)で破って日本一となるなど中大黄金期の礎を創った。中大を卒業し入団した松下電器(現・大阪ブルテオン)でも1964年、チームの全日本都市対抗、全日本総合、国体、全日本実業団の国内4大タイトル独占の原動力となった。
井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は… 井原 文之(いはら ふみゆき、1940年9月16日 - )は、元日本男子バレーボール選手、バレーボール指導者。元富士フイルムの選手・監督。広島県佐伯郡三高村(現江田島市)出身。崇徳高等学校卒。身長167cm。 高校時代は崇徳高校の九人制のバック選手として活躍。レシーブの名手として知られた。1959年、当時は企業名もほとんど知られていなかった富士フイルムに入社。1964年の九人制全日本総合選手でチーム初優勝に貢献したが、会社が翌1965年度を最後に九人制をやめ、六人制一本に絞ったため167cmのレシーバーに出番はなく1966年引退。大卒のエースだった同期の小山勉部長が監督に就任するのとは対照的にバレー部を去り7年間工場勤務。