スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
山野 力(やまの ちから、2000年5月22日 - )は、日… 山野 力(やまの ちから、2000年5月22日 - )は、日本の陸上競技選手。山口県宇部市出身。九電工陸上競技部所属。専門種目は長距離走。 宇部市立神原中学校、宇部鴻城高等学校、駒澤大学経営学部卒業。 三大駅伝での出場はなし。 第32回出雲駅伝は新型コロナウイルスの影響により中止。第52回全日本大学駅伝で6区を担当し、三大駅伝初出場。3位で襷を受け順位を1つ落としたものの、区間4位でまとめた。なお、駒澤大は大会新記録(5時間11分08秒)で6年ぶり13回目の優勝を果たした。 第97回箱根駅伝では9区を担当。1位・創価大と1分29秒差の2位で襷を受け区間6位の走りを見せたが、その差を3分19秒まで広げられる。
正木 雄大(まさき ゆうた、1999年6月15日 - )は、… 正木 雄大(まさき ゆうた、1999年6月15日 - )は、山口県宇部市出身のプロ野球審判員。審判員袖番号は17。 宇部市立西岐波中学校を経て進学した宇部鴻城高等学校時代には捕手として活躍。2年時には3投手を巧みにリードし、中国大会を制覇。2017年には春の高校野球で正捕手として出場した。同年夏は県大会で打率4割と好調だったものの、決勝で下関国際高に敗れた。卒業後は県高野連審判部で裏方を務めた。 2018年12月に開催された第6回NPBアンパイア・スクールにおいて研修審判員として採用され、2019年は独立リーグ・四国アイランドリーグplusにおいて経験を積んだ。 2019年12月11日、日本野球機構より育成審判員として契約することが発表され、翌2020年1月1日に日本野球機構審判部に入局。
中村 恵吾(なかむら けいご、1989年3月23日 - )は… 中村 恵吾(なかむら けいご、1989年3月23日 - )は、山口県山陽小野田市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。右投右打。NPBでは育成選手であった。 宇部鴻城高校を経て、神奈川大学に進学。高校時代には、3年時に主将を務めたが、春夏とも全国大会に出場できなかった。大学時代にも、ケガの影響で神奈川大学リーグ公式戦への登板が1試合にとどまった。 大学4年生の秋には、リーグ戦へのベンチ登録を果たせなかった。しかし、野球を諦められなかったことから、独立リーグであるBCリーグのトライアウトを受験。その結果、トライアウト後の2012年ドラフト会議で、富山サンダーバーズからの指名を受けて入団に至った。 2013年には、リーグ戦12試合に登板。
竹谷 佳孝(たけや よしたか、1980年1月27日 - )は… 竹谷 佳孝(たけや よしたか、1980年1月27日 - )は、山口県山口市出身のプロゴルファー。 1998年、宇部鴻城高等学校卒業。同校野球部では遊撃手として活躍するも2年時に腰痛を患い野球を断念した。同校卒業後、北九州市の九州ゴルフ専門学校に1期生として入学。2000年に同校を卒業し、専攻生コースに進学。2001年、同校練習生コースに進学。修了後、広島県東広島市の賀茂カントリークラブに所属し研修生として腕を磨く。 2003年、安芸オープンゴルフトーナメントにてスコア64のコースレコードで優勝。2006年、フィランスロピー中四国ゴルフトーナメントで優勝。同年8月、日本プロテストに合格。同年10月、日本プロゴルフ新人選手権大会に出場し、プロ初優勝。
梅木 蔵雄(うめき くらお、1975年9月30日‐ )は、山… 梅木 蔵雄(うめき くらお、1975年9月30日‐ )は、山口県下関市出身の元陸上競技選手。専門は長距離種目。宇部鴻城高等学校、早稲田大学卒業。中国電力陸上競技部所属。 小学校時代は足が速くなかったが光市立浅江中学校に入り陸上を始め、1000m走、3000m走で中学生の山口県記録を樹立する実力をつけたその後宇部鴻城高等学校に進学し瀬古利彦とも知り合った。早稲田大学に特別選抜枠で進学し、箱根駅伝には3年連続出場、3年時には1区で区間賞、4年時には華の2区で区間賞に輝いた。2003年のベルリンマラソンで2時間10分を切った。2006年には同大会では3位入賞を果たした(優勝はハイレ・ゲブレセラシェで2時間5分56秒)。
高山 哲哉(たかやま てつや、1973年8月30日 - )は… 高山 哲哉(たかやま てつや、1973年8月30日 - )は、NHKのシニアアナウンサー。 山口県宇部市出身。私立宇部鴻城高等学校、早稲田大学教育学部卒業後、1996年(平成8年)4月入局。 NHKラジオ番組引越センター(2026年2月23日、ラジオ第1・ラジオ第2・FM)
櫛部 静二(くしべ せいじ、1971年11月11日 - )は… 櫛部 静二(くしべ せいじ、1971年11月11日 - )は、日本の陸上競技選手で運動生理学者。城西大学経営学部教授、城西大学男子駅伝部監督。1時間走の日本記録保持者。山口県宇部市生まれ。宇部鴻城高等学校・早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業、日本体育大学大学院修了。 宇部鴻城高等学校3年時の1989年、インターハイ3000メートル障害において、8分54秒27の大会新で優勝。同年スーパー陸上で8分44秒77の高校記録樹立(三浦龍司が更新するまで30年間保持)。 1990年、早稲田大学人間科学部に入学し、同期の武井隆次、花田勝彦らと共に早大三羽烏と呼ばれた。同大学競走部在籍1年目の1991年から箱根駅伝2区走者として抜擢される。
小林 敦美(こばやし あつみ、1961年9月27日 - )は… 小林 敦美(こばやし あつみ、1961年9月27日 - )は、山口県宇部市出身の元プロ野球選手(投手)。 宇部鴻城高から社会人野球のリッカーを経て、1983年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。 1984年5月28日の日本ハム戦(阪急西宮球場)で初完封初勝利を記録するも、プロでの勝ち星はこの1勝に終わった。球団名が「オリックス・ブレーブス」に変更された1989年限りで現役を引退。その後は三菱樹脂美祢工場に勤務しながらマスターズリーグ・福岡ドンタクズでもプレーした。
遊人(ゆうじん、1959年6月15日 - )は、日本の漫画家… 遊人(ゆうじん、1959年6月15日 - )は、日本の漫画家。 山口県宇部市出身。代表作に『ANGEL』、『桜通信』(1995年 - 2000年まで『週刊ヤングサンデー』に連載)、『学園天国』など。 1979年、『同姓契約』でデビュー。 初期は『モーニング』や旺文社の中学生向け学年誌等で作品を掲載。その後、『実話タイムス』で初の連載をつかむものの単行本が売れず、約10年間漫画家の道を模索する。 1988年より『週刊ヤングサンデー』(小学館)で連載していた『ANGEL』が大ブレイクしたが、1990年ごろの有害図書問題の槍玉にあがり、社会問題に発展。『ANGEL』は、数年後アダルトゲーム化やOVA化され、シュベール出版から成年向け作品として再出版された。
石川 政雄(いしかわ まさお、1950年4月19日 - )は… 石川 政雄(いしかわ まさお、1950年4月19日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 宇部鴻城高校では1968年春季中国大会県予選準々決勝に進むが、柳井高に敗退。夏も県大会で敗れ甲子園には出場できなかったが、強肩俊足の捕手として注目を集める。 1968年ドラフト会議で広島東洋カープに4位指名を受け入団。入団時は田中尊、久保祥次の壁が厚く一軍に定着できなかった。1972年には一軍に上がり、久保、水沼四郎に次ぐ捕手として10試合に先発マスクを被る。しかしその後は西沢正次、道原博幸の台頭もあって出場機会が減り、1977年限りで引退。1979年からブルペン捕手に就任した。
馬場 良治(ばば りょうじ、1949年(昭和24年)6月13… 馬場 良治(ばば りょうじ、1949年(昭和24年)6月13日 - )は、日本画家、重要文化財復元の第一人者。日本美術院の院友である。東京藝術大学美術研究科保存修復技術専攻修了。山口大学客員教授。 1949年、山口県宇部市生まれ。宇部鴻城高等学校卒業。1980年(昭和55年)東京藝術大学美術学部日本画科卒業。同大学院美術研究科保存修復技術専攻に進学し、大山明彦らと共に山崎昭二郎に師事する。1983年(昭和58年)同大学院美術研究科保存修復技術専攻修了。1984年(昭和59年)文化庁の依頼を受ける。 2003年(平成15年)〜2010年(平成22年)、歓喜院聖天堂の修理専門委員会委員となり、彩色担当となる。
田村 洋(たむら ひろし、1948年(昭和23年)12月15… 田村 洋(たむら ひろし、1948年(昭和23年)12月15日 - )は、作曲家、山口県立大学名誉教授。 山口県厚狭郡山陽町(現・山陽小野田市)出身。1977年に、第19回パリ国際ギターコンクールにて作曲部門受賞。その後、劇団民芸、他、舞台音楽、NHK番組など数々の作曲を手がける。 1999年に山口県立大学国際文化学部文化創造学科の教授に招聘され、以後も山口県内で作曲活動やイベントプロデュースを手がけた。2014年2月に最終講義を行い、3月末に退職。以後は、山口県立大学名誉教授
真鍋 安政(まなべ やすまさ、1948年11月5日 - 20… 真鍋 安政(まなべ やすまさ、1948年11月5日 - 2016年11月5日)は、山口県宇部市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。 宇部鴻城高等学校時代は主将を務め、春の中国地区大会の準決勝で下関市立下関商業高等学校を破るなど、攻守の要として活躍。中国地方では指折りの打てる大型内野手として知られていた。通算打率.318[要出典]。 1966年の第1次ドラフト会議で巨人から4位指名され入団。 1972年限りで一軍公式戦の出場がないまま引退した。