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富田 龍(とみだ りゅう、1999年11月11日 - )は、… 富田 龍(とみだ りゅう、1999年11月11日 - )は、香川県高松市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。左投左打。読売ジャイアンツ所属。 高松市立牟礼南小学校時代は軟式野球の牟礼南クラブに所属。高松市立牟礼中学校では軟式野球部に所属するとともに、元プロ野球選手の高橋浩司が開く「高橋野球塾」で硬式野球の指導を受けていた。 香川県立志度高等学校では2年秋に背番号11で公式戦デビュー。3年春からエースとなり、3年夏の香川県大会は初戦(2回戦)の高松商戦に先発したが、1/3回で3安打を打たれて降板し、チームは0-10で6回コールド負けを喫した。甲子園出場経験はなし。 四国学院大学では、13試合に登板して通算1勝ながら、43回2/3を投げ42奪三振と高い奪三振率を誇った。
高橋 浩司(たかはし こうじ、1982年11月12日 - )… 高橋 浩司(たかはし こうじ、1982年11月12日 - )は、香川県さぬき市出身の元プロ野球選手(捕手)。「高橋野球塾」塾長、NPO法人讃們球友倶楽部理事長。 香川県立志度高等学校時代から、パンチ力のあるバッティングが持ち味の選手として有名であった。高校2年夏は県大会準決勝で丸亀高校を相手に本塁打を放つが敗退。秋の県大会も準決勝で丸亀高と対戦して先発登板したが大差で途中から捕手を務めて敗戦。3年夏は県大会準決勝でまたも丸亀高を相手に先発完投したが延長10回で敗れ甲子園出場はならなかった。2000年のドラフト8位でオリックス・ブルーウェーブに指名され入団。なお、入団の際の契約内容はオリックスが当時下位指名の選手に対し行っていた契約金ゼロ・一軍出場数による出来高払い制の変則契約である。
白井 一幸(しらい かずゆき、1961年6月7日 - )は、… 白井 一幸(しらい かずゆき、1961年6月7日 - )は、香川県大川郡志度町(現:さぬき市)出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ、野球解説者。ジャニーズ事務所の社外取締役。 志度東中学・志度商高・駒澤大学のすべてで主将を務めた。志度商高では1979年夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、丸亀商高に完封負けを喫した。駒澤大学に進学し、東都大学野球リーグでは1983年に、同期の鍋島博(後にNTT東京)、1年下の河野博文の両エースを擁し春秋季連続優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で近畿大を降し優勝、明治神宮野球大会では東海大に敗れ準優勝。リーグ通算73試合に出場し、打率.330(270打数89安打)、3本塁打、26打点。
熊野 輝光(くまの てるみつ、1957年8月28日 - )は… 熊野 輝光(くまの てるみつ、1957年8月28日 - )は、香川県木田郡三木町出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。 ロサンゼルスオリンピック野球競技の金メダリスト。 志度商業高校では、遊撃手として1975年の春の選抜に出場。志度商としては34年ぶりの選抜出場(甲子園出場は28年ぶり)であり大きな話題となるが、1回戦でエース小林誠二を擁する広島工に敗退。同年夏は北四国大会準決勝で続木敏之、片岡大蔵のいた新居浜商に敗れた。 卒業後は中央大学に進学。東都大学リーグでは1979年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で岡田彰布らを擁する早大を降し優勝。リーグ通算103試合に出場し、390打数90安打、打率.231、5本塁打、31打点。
細川 昌俊(ほそかわ まさとし、1947年 - )は、香川県… 細川 昌俊(ほそかわ まさとし、1947年 - )は、香川県出身の実業家、元アマチュア野球選手。 香川県立志度商業高等学校ではエースとして活躍。1964年秋季四国大会県予選では準決勝に進むが、丸亀商に敗退。1965年ドラフト会議でサンケイスワローズに8位指名を受けるが拒否。 東洋大学に進学し外野手に転向。当時の東洋大は東都大学野球リーグ二部に低迷していたが。同期のエース会田照夫の好投もあり1966年秋季リーグで二部優勝。入替戦で芝工大を降し、5年ぶりに1967年春季リーグから一部昇格を果たす。しかし一部優勝には届かず、1968年春季リーグの3位が最高成績であった。1968年秋季リーグでは、専大の芝池博明から神宮球場バックスクリーン越えの本塁打を放ち注目を集める。
川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年… 川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年不明)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)。 志度商業学校から1942年に巨人軍(現・読売ジャイアンツ)へ入団する。入団年の1942年シーズンには、登板・先発登板・完投など巨人軍における球団最年少記録を数多く記録した。もともと捕手だったが、戦時中で人不足のため投手も兼任していた。巨人軍では1944年のシーズンに4番打者としての先発出場もあった。 1945年に軍に徴兵され、レイテ島戦線で戦った後、1946年に復員し、四国鉄道局、丸亀南海興業でプレーした後に1949年に大映スターズから球界へ復帰したが、戦争で肩を痛めたこともあり思うような成績を残せずに同年限りで現役を引退した。
小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県… 小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県出身のプロ野球選手(投手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)を経て、1940年にイーグルスに入団。後に南海でプレーした三村正は1年先輩に当たる。翌1941年まで在籍したが、出場したのは1940年6月18日の巨人戦(後楽園球場。中河美芳、長谷川重一の後を継いで3番手で登板。2/3回を投げて1安打5四球2三振、失点3、自責点3で降板)と同年8月7日の阪急戦(満州リーグ戦開催中で、新京の児玉公園球場で行われた。玉腰忠義の後を継いで2番手で7回から登板。2回を投げて3安打2四球、失点1、自責点1の成績だった)の2試合のみだった。 1941年シーズン終了後に退団し、その後は北京の華北綿産でプレーしていたが、のち応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明… 三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明)は香川県出身のプロ野球選手(捕手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)卒業。後にイーグルスでプレーした小野寺洋は1年後輩に当たる。1939年より全京城でプレー。当時の全京城は強豪として知られ、三村の在籍時に2回(1940年、1942年)優勝。三村も正捕手として大きく貢献した。都市対抗野球でバッテリーを組んだ投手に、野村清がいる。 終戦後の1948年、南海に入団。しかし28歳での高齢の入団だったことや、正捕手・筒井敬三が活躍したこともあり、僅か10試合の出場(スタメンに名を連ねた事は一度もなかった)にとどまり、同年末に1年間のプロ野球生活をもって、引退した。