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塩崎 兼一(しおざき けんいち、1968年4月29日 - )… 塩崎 兼一(しおざき けんいち、1968年4月29日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。 八幡浜高では1年秋は先発として県大会優勝に貢献、四国大会も先発したが初戦で池田高に敗れた。3年春は県大会優勝し、夏は県大会準決勝で水口栄二らを擁する松山商に8回コールドで敗退。1986年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから5位指名を受け入団。 プロ1年目の1987年から一軍初登板を果たし、1988年はアメリカルーキーリーグビュート・カッパー キングに野球留学し、4勝4セーブを記録した。1992年限りで現役を引退した。 引退後は、1993年から打撃投手に転身したが同年限りで退団した。
上田 和明(うえだ かずあき、1962年8月3日 - )は、… 上田 和明(うえだ かずあき、1962年8月3日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手(内野手)。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 愛媛県立八幡浜高等学校を経て慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、4年時の1984年春季リーグ早慶戦で3試合連続を含む4本塁打を放ち注目を集める。同年の日米大学野球選手権大会日本代表となり、さらにロサンゼルス五輪野球日本代表(このときは公開競技)に選ばれた。リーグ戦通算105試合に出場し374打数88安打、12本塁打、39打点、打率.235。ベストナイン(遊撃手)1回。 1984年のドラフト会議で明治大学広沢克己、竹田光訓と共に大学球界ビッグ3と呼ばれ、竹田のクジを外した読売ジャイアンツに1位指名され翌1985年入団。
成田 幸洋(なりた ゆきひろ、1961年7月16日 - )は… 成田 幸洋(なりた ゆきひろ、1961年7月16日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。 八幡浜高校では3年春の県大会決勝で完投勝利して優勝。社会人野球の丸善石油に進む。1981年の都市対抗には同僚の捕手金田進とともに四国銀行の補強選手として出場。1回戦で大昭和製紙北海道と対戦し、リリーフで好投するが敗退。野球部の休部により1982年東芝に移籍。 1982年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団。 1984年はアメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学。 1985年にはイースタン・リーグで最多勝を記録。しかし一軍では結果を残せなかった。 1989年オフ、高橋一彦との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍した。
藤沢 公也(ふじさわ きみや、1951年11月29日 - )… 藤沢 公也(ふじさわ きみや、1951年11月29日 - )は、愛媛県西宇和郡伊方町出身(大分県北海部郡佐賀関町〈現:大分市〉生まれ)の元プロ野球選手(投手)。 中学1年の時に陸上競技から野球に転向し、八幡浜高では1968年秋にエース・3番として実質予選である県大会準決勝で河埜和正のいた八幡浜工を完封。決勝では帝京五高の登記欣也に投げ勝って秋季四国大会に進出するが、1回戦で丸亀商の井原慎一朗と投げ合い、延長14回の接戦で惜敗。3年次の1969年には夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、井上明・谷岡潔のいた松山商に敗退。なお、松山商は甲子園で全国制覇を果たしている。 1969年のドラフトでロッテオリオンズから3位指名されるが、入団を拒否。
二宮 忠士(にのみや ただし、1945年6月5日 - )は、… 二宮 忠士(にのみや ただし、1945年6月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 八幡浜高校では、1963年の春季四国地区高等学校野球大会に初優勝するものの、甲子園には届かなかった。卒業後は東芝へ入社。1966年の都市対抗野球では中心打者として、チームの準々決勝進出に貢献する。 1967年ドラフト2位で東映フライヤーズに入団。100メートル11秒台の俊足、鉄砲肩、ノンプロ通算20本塁打という実績を認められてのプロ入りだった。1968年にはジュニアオールスターに選出され、翌年は16試合に出場するが、打撃面で伸び悩む。病気を患い4年目の1971年限りで引退。 引退後の1979年7月には山田潔団長の下、大友工・大橋勲と共に「日本プロ野球コーチ団」団員として中国で野球指導を行う。
大黒 正一(だいこく しょういち、1941年6月1日 - )… 大黒 正一(だいこく しょういち、1941年6月1日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。 八幡浜高校では2年生の時に夏の甲子園に出場。 1960年に大阪タイガースへ入団。1963年に阪急ブレーブスへ移籍するも一軍試合出場は無く同年で退団した。
矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年1… 矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年11月20日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(外野手)。 愛媛・八幡浜高校では1958年の夏の甲子園に中堅手として出場。1回戦で清水東高に敗退。 1959年に阪急ブレーブスに入団。長距離打者として期待され、1962年には外野手として18試合に先発出場。7月1日には四番打者としても起用された。翌1963年も28試合に先発するが、打撃面で低迷が続き出場機会が減少。1967年オフには自由契約選手の候補となる。しかし1968年は6月から先発として起用され、右翼手、四番打者に定着。規定打席には達しなかったが打率.301、本塁打27本の好成績をあげ、「10年目の新人」と呼ばれた。
菊地 彰穂(きくち あきほ、1937年9月1日 - )は、愛… 菊地 彰穂(きくち あきほ、1937年9月1日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。 八幡浜高校から1956年に大映スターズへ入団。1957年に退団。
谷本 稔(たにもと みのる、1937年2月1日 - 2010… 谷本 稔(たにもと みのる、1937年2月1日 - 2010年)は、愛媛県八幡浜市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。 八幡浜高校1年次の1952年に板前であった父親を亡くし、「母親を楽にするために」と大学進学を諦めてプロを志す。3年次の1954年に行われた夏の甲子園県予選では打率.660と打ちまくったが、準々決勝で宇和島東高に惜敗。1955年、高校の監督が藤本定義監督の兄であった事から大映スターズに入団。1年目の同年は3月27日の東映戦(駒澤)に捕手で開幕戦スタメンデビューを果たすが、これは日本プロ野球史上初の「高卒ルーキー捕手の開幕戦スタメンデビュー」であり、2006年の炭谷銀仁朗(西武)まで51年間なかったという非常に稀な出来事でもあった。
二宮 政昭(にのみや まさあき、1934年9月8日 - )は… 二宮 政昭(にのみや まさあき、1934年9月8日 - )は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現:西予市)出身の元プロ野球選手(外野手)。 愛媛県立八幡浜高等学校から1953年に大映スターズへ入団。 1956年オフに大洋ホエールズへ移籍し、1958年に引退した。
兵頭 冽(ひょうどう ただし、1934年8月9日 - 201… 兵頭 冽(ひょうどう ただし、1934年8月9日 - 2013年8月)は、愛媛県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。 八幡浜高校時代に若林忠志のスカウトを受け、1953年に毎日オリオンズへ入団。毎日時代は2年間で25試合の出場に留まった。 1955年に同年より若林がコーチに就任したトンボユニオンズに移籍。長身を活かした力強スイングを評価され、春のキャンプでは主力級の扱いを受けた。しかし、兵頭は周囲の期待に応えられず一割台の打率に低迷した。なお、8月2日の毎日戦に「高校時代に投手をやっていたから」との理由で敗戦処理ながら投手として初登板し、無失点に抑える。この起用に対しては、兵頭本人も「まさか本当に登板するとは」と苦笑したという。