スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
竹下 真吾(たけした しんご、1990年10月20日 - )… 竹下 真吾(たけした しんご、1990年10月20日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 九州共立大学時代は主将も務めたが同期に川満寛弥、1年下に大瀬良大地がいて同期・福地元春とともに登板機会は限られて4年秋の1勝に終わる。社会人野球のヤマハでは1年目の第84回都市対抗野球準々決勝で初先発すると5回無失点に抑えるが敗退。翌年はHonda鈴鹿の補強選手として出場した。2014年10月23日、ドラフト会議で安樂智大の抽選を外した東京ヤクルトスワローズから1位指名を受け、11月19日に契約金1億円+出来高払い、年俸1500万円で仮契約を結んだ。背番号は22。 2015年は、二軍で19試合に登板。
中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は… 中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は、福岡県北九州市八幡西区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。プロ野球コーチ。現在は福岡ソフトバンクホークス一軍投手コーチ。 妻はフリーアナウンサーの角野友紀。 1982年5月11日、福岡県北九州市八幡西区で生まれる。 1991年、北九州市立永犬丸小学校3年時に父親がコーチ・監督を務める「永犬丸レッドライオンズ」でソフトボールを始め、1995年、北九州市立沖田中学校時代に「上津役ロビンス」へ入団し本格的に野球を始めた。 1998年4月、福岡県立八幡高等学校へ進学。始業前の授業や夏休みの補習など進学校特有の授業構成の中、勉強との両立に苦しみながら練習を積んだ。
森下 整鎮(もりした のぶやす、1933年9月4日 - 20… 森下 整鎮(もりした のぶやす、1933年9月4日 - 2018年10月26日)は、福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 1952年から1958年及び1986年の登録名は森下 正夫(もりした まさお)。本名は森下 正弘(もりした まさひろ)。 八幡高校時代は高校屈指の強打者として注目され、2年次の1950年に遊撃手として春の選抜へチーム初出場。1回戦で萩北高のエース椙本勝を打ち崩し初勝利を飾る。続く準々決勝では、この大会に優勝した韮山高の東泉東二投手から5点を奪うが、9回裏逆転サヨナラ負けを喫する。この試合では9回まで5-2と勝っていたが、遊撃を守っていた森下が9回裏満塁のピンチでバックホームを大悪投し、サヨナラ負けを喫した。
松永 怜一(まつなが れいいち、1931年11月3日 - 2… 松永 怜一(まつなが れいいち、1931年11月3日 - 2022年5月12日)は、福岡県北九州市出身のアマチュア野球指導者。 学生・社会人野球界で監督を歴任。野球が公開競技であったロサンゼルスオリンピックでは野球日本代表を監督として金メダルに導いた。 八幡市立(現在の北九州市立)槻田小学校時代、家の近くの八幡製鉄のホームグラウンド大谷球場(現在の北九州市立大谷球場)で八幡製鉄と門司鉄道管理局の春・秋の定期戦「製門戦」に夢中になる。 福岡県立八幡中学校(1948年の学制改革により福岡県立八幡高等学校となる)では三塁手、三番打者として活躍。同じ北九州の福岡県立小倉中学校(のち福岡県立小倉高等学校)がエース福嶋一雄(2013年野球殿堂入り)を擁し、1947年から夏の甲子園で連続優勝、打倒小倉高が目標となる。
江藤 晴康(えとう はるやす、1922年5月9日 - 201… 江藤 晴康(えとう はるやす、1922年5月9日 - 2016年2月21日)は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。1949年から1954年は、「江藤 正(えとう ただし)」の名前でプレーした。 八幡中(現:八幡高)・法政大学でエース投手として活躍。在学中に学徒出陣で召集され、台湾で終戦を迎える。大学卒業後は社会人野球の門司鉄道局・大洋漁業でプレー。1949年に南海ホークスに入団した。 プロ入りに際し、大阪タイガースと南海ホークスとの二重契約が発覚。これには、以下のような事情がある。以前に武末悉昌の獲得を巡って両球団が争い、武末が南海に入ったことを「奪われた」と考えた大阪の若林忠志監督が南海の山本一人監督に抗議したところ、山本が「武末は南海、江藤は大阪ということにしよう」と口にした。