スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
中村 真一(なかむら しんいち、1959年(昭和34年)2月… 中村 真一(なかむら しんいち、1959年(昭和34年)2月15日 - )は、日本の実業家。日本製鉄株式会社副社長を経て、2022年6月より日鉄物産株式会社代表取締役社長。また、2023年6月より全日本柔道連盟会長を務める。 福岡県出身。福岡県立嘉穂高等学校卒業。1982年(昭和57年)東京大学法学部を卒業し、新日本製鐵(現・日本製鉄)に入社。2009年(平成21年)、新日本製鐵株式会社薄板事業部自動車鋼板営業部長、2013年(平成25年)に新日鐵住金株式会社執行役員・建材事業部長、2016年(平成28年)に同常務取締役・薄板事業部長を経た後、2018年(平成30年)に同社代表取締役副社長に就任。
久芳 徹夫(くば てつお、1954年2月2日 - )は日本の… 久芳 徹夫(くば てつお、1954年2月2日 - )は日本の技術者、実業家。京セラ代表取締役社長や、同社代表取締役会長、京都パープルサンガ代表取締役会長等を務めた。 福岡県出身。福岡県立嘉穂高等学校を経て、1979年九州大学工学部卒業。1982年京都セラミツク(現京セラ)入社。自動車部品事業部長、ファインセラミック統括事業部長を経て、2003年執行役員に昇格。2005年執行役員常務。2007年執行役員専務。2008年取締役兼執行役員専務。 2009年から京セラ代表取締役社長を務め、太陽電池事業の黒字化などを実現した。2013年代表取締役会長、京都パープルサンガ代表取締役会長、京セラサーキットソリューションズ代表取締役会長、京セラドキュメントソリューションズ代表取締役会長。
山見 博康(やまみ ひろやす、1945年 - )は、日本の実… 山見 博康(やまみ ひろやす、1945年 - )は、日本の実業家。山見インテグレーター株式会社代表取締役、広報PR・危機対応コンサルタント。九州大学・名古屋文理大学非常勤講師。 米国ダートマス大学エイモスタック経営大学院マネジメントプログラム修了。日本PR協会、日本広報学会、東京商工会議所などの会員。 1945年、福岡県飯塚市生まれ。1965年、福岡県立嘉穂高等学校卒業。1968年、九州大学経済学部卒業、(株)神戸製鋼所に入社。人事部、鉄鋼販売部及び輸出部、カタール製鉄建設プロジェクトに従事しドーハ駐在を経て、1979年から一貫して広報に携わる。1985年より日豪政府協力事業褐炭液化プロジェクトに従事しメルボルンに駐在、日豪のマスコミに対応。
前田 勝之助(まえだ かつのすけ、1931年2月5日 - 2… 前田 勝之助(まえだ かつのすけ、1931年2月5日 - 2013年4月7日)は、日本の技術者・経営者。東レ名誉会長。 福岡県嘉穂郡穂波村大字忠隈(現:福岡県飯塚市)に生まれる。父・繁師(しげのり)は住友鉱山忠隈炭鉱の病院の薬局長、母・道枝は山鹿(熊本県)の御殿医の流れを汲む竹下病院の長女。住友鉱山の庭付きの社宅で育った。姉・上野栄子、兄・慶之助。 菰田小学校時代、約50人の学級の中に朝鮮人が5、6人おり、彼らは1、2歳年上だった。日本人と朝鮮人の生徒間の喧嘩が始まると、級長の前田は間に割って入った。 嘉穂中学校時代は勤労動員に遭遇し、炭鉱で採炭の仕事に明け暮れた。男たちは戦争に駆り出され人手不足だった。
江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3… 江頭 匡一(えがしら きょういち、1923年〈大正12年〉3月25日 - 2005年〈平成17年〉4月13日)は、日本の実業家。ファミリーレストランロイヤルホストなどを展開するロイヤル(現・ロイヤルホールディングス)の創業者。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に父・江頭佳造、母・照代の長男として生まれる。旧制嘉穂中学校(現福岡県立嘉穂高等学校)卒業。授業を抜け出してプールで泳いだり、買い食いをしたりと父親泣かせであり、教師泣かせであったと本人は振り返っている。中学校卒業から3か月たって米子地方航空機乗員養成所に入所する。明治大学専門部中退。 1946年、米軍春日原ベース内のPX(売店)の指定商人を始めたことを切っ掛けに、1950年、ロイヤルの前身会社・キルロイ特殊貿易を設立。
花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 -… 花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 - 1997年1月4日)は、日本の財界人。従三位。 福岡県飯塚市生まれ。嘉穂中学校 (旧制)、山口高等学校 (旧制)を経て、1932年東京帝国大学経済学部を卒業。 卒業後、国立福岡少年院教官を経て、1942年に東大経済学部時代の同期であった帆足計に誘われ、経団連の前身である重要産業協議会に入り、1946年経済団体連合会(経団連)の設立に伴い、総務部次長となる。 1953年から1954年の海運造船疑獄事件で政治献金への世間の不信が高まったのをきっかけに、当時、経団連副会長であった植村甲午郎の下でそれまでの個々の企業からの献金をやめ、経団連を通じての自由民主党への献金システム作りを担当、企業献金に関わるようになり、後に財界政治部長の異名を取る。