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中村 浩一(なかむら こういち、1979年11月25日 - … 中村 浩一(なかむら こういち、1979年11月25日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 三池工業高校では3年夏は県大会4回戦敗退もプロ数球団に注目されていた。社会人野球のローソンからは初めて、2000年のプロ野球ドラフト会議で福岡ダイエーホークスから6位指名を受け入団。 プロ2年目の2002年に一軍初出場。翌2003年にはプロ初安打を記録するが、この年の一軍出場はこの1試合だけだった。 その後は、一軍に出場することなく2005年限りで現役を引退。
矢野 俊一(やの としかず、1950年4月21日 - )は、… 矢野 俊一(やの としかず、1950年4月21日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。1975年のみ登録名矢野 剛俊とした。 福岡・三池工高から三菱重工長崎を経て1972年ドラフト5位で大洋入団。1974年に一軍に定着、代打としての起用が多かったが、主に二塁手として7試合に先発出場を果たす。1976年にも外野手として12試合に先発。1978年11月無償トレードにてロッテに移籍。1979年も13試合に先発出場、一番打者としても3試合に起用されるが、1980年には出場機会がなく、同年限りで現役を引退。左投手にめっぽう強かった。引退後はジュウタン専門のクリーニング会社へ就職。
石田 宝蔵(いしだ ほうぞう、1950年(昭和25年)2月2… 石田 宝蔵(いしだ ほうぞう、1950年(昭和25年)2月20日 - )は、日本の政治家。前柳川市長。 福岡県柳川市(旧大和町)出身。福岡県立三池工業高等学校卒業後、1969年に柳川消防署入署、1971年大和町役場入庁。1994年8月大和町町長選に立候補、当選。以後、2005年3月まで3期10年間、町長を務める。 柳川市、三橋町、大和町の合併により新柳川市が生まれたことに伴い、無所属で新市長選挙に立候補。前柳川市長であった河野弘史を抑え当選した。4月24日に市長職に就任した。人口の多い旧柳川市長の河野候補が圧倒的有利と見られていたが、マニフェストを掲げ、これまでの政策の転換を打ち出したことが奏功し、「改革派」としてのイメージが有権者に受け入れられたため、下馬評を覆しての当選となった。
猿渡 寛茂(さるわたり ひろしげ、1949年4月28日 - … 猿渡 寛茂(さるわたり ひろしげ、1949年4月28日 - )は、福岡県田川市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 三池工高は名将・原貢監督の指導で強豪チームへと変貌を遂げ、1年次の1965年には1年上のエース・上田卓三を擁し、夏の甲子園で初出場初優勝を果たしたが、自身はベンチ外であった。2年次の1966年にはチームの主将として活躍し、秋季九州大会では準決勝まで進出するが鎮西高にコールド負けを喫し、1967年の春の選抜出場を逸する。同期にはプロでもチームメイトとなる相本和則がいた。 卒業後は三菱重工長崎に入社し、俊足とパンチ力ある打撃を武器にレギュラーとして定着、チームの勝利に貢献する4番打者となった。
相本 和則(あいもと かずのり、1949年4月22日 - )… 相本 和則(あいもと かずのり、1949年4月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 三池工業高校では1965年夏の甲子園でチームの初優勝を経験するが、1年生であり出場はできなかった。高校同期に猿渡寛茂がいる。 高校卒業後は東海大学へ進学。首都大学野球リーグでは在学中に6回優勝。二塁手、一番打者として活躍する。1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会に首都大学野球リーグ代表として出場。決勝ではエース上田二郎が東京六大学野球リーグ代表の星野仙一らと投げ合い完封勝利、優勝を果たす。1969年の第18回全日本大学野球選手権大会でも決勝に進み、上田が日大の佐藤道郎と互いに無失点で投げ合う。
上田 卓三(うえだ たくぞう、1948年7月12日 - )は… 上田 卓三(うえだ たくぞう、1948年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(投手)。 原貢が監督を務めた三池工業高校の出身。1965年の第47回全国高等学校野球選手権大会に2年生ながらエースとして出場。初戦からの4試合を完投勝利、決勝に進む。銚子商との決勝でも、木樽正明との投手戦を2-0で制し、完封で優勝を飾る。しかし同年の岐阜国体は、準決勝で銚子商の木樽に完封を喫する。翌1966年夏は県予選準々決勝で横山晴久のいた小倉工に延長11回敗退。 同年秋、第1次ドラフト1位指名で南海ホークスへ入団。リリーフを中心に活躍するが、1970年以降は、他の左腕投手が村上雅則しかいないこともあり、ローテーションの谷間に先発もこなす。
穴見 寛(あなみ ひろし、1947年 - 2021年12月5… 穴見 寛(あなみ ひろし、1947年 - 2021年12月5日)は、福岡県出身の日本の高校野球指導者。 三池工業高校時代には原貢監督の下でプレー。1965年夏の甲子園大会には8番・捕手で出場し、2年生エースの上田卓三をリードし、同校の初出場初優勝に貢献。また、かつての活況を失っていた「炭鉱の町」・三池を湧かした。 高校卒業後は首都大学野球の東海大学に進学。同期に上田次朗、1学年下には高校からの後輩である林田俊雄がいた。 大学卒業後は、恩師の原が監督を務めていた東海大相模高校のコーチとして赴任し、原が東海大の監督に就任後には同校の監督を引き継いだ。1977年には夏の甲子園に出場。 その後は地元の福岡に戻り、系列校の東海大第五高校の監督に就任。
苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は… 苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 三池工高では原貢の指導を受ける。三池工高には一般入試不合格後、定時制で入学。その際に尽力してくれた原貢監督へのお礼にと、貢の長男原辰徳とよく遊んであげたという。九州一のスラッガーとして名を馳せ「中西二世」とも呼ばれ期待されていた。1962年秋季九州大会準決勝に進むが、小倉工に敗退。翌1963年夏の甲子園県予選は準々決勝で嘉穂東高に敗れる。 1964年にプロ入り。地元の西鉄ライオンズをはじめ9球団が獲得に乗り出したが、苑田が選んだのは一番条件の低かった広島カープだった。広島入団の決め手となったのは担当だった久野久夫スカウトの人柄であり、「久野さんの熱心さにひかれた。
小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 201… 小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 2011年4月1日)は、福岡県大牟田市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 三池工業高校を卒業後の1954年に東洋高圧大牟田へ入社。1955年の都市対抗では中心打者として準々決勝に進み、全鐘紡に惜敗したものの首位打者賞を獲得。1956年の大会では濃人渉監督率いる日鉄二瀬に補強され3番打者として活躍し、打撃賞を得る。この時のチームメイトには古葉毅・吉田勝豊・江藤慎一がいた。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場。 1957年に西鉄ライオンズへ入団し、同年から一軍に定着。仰木彬の控えではあったが、主に二塁手として49試合に先発出場。