スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
藤崎 靖彦(ふじさき やすひこ、1968年7月11日 - )… 藤崎 靖彦(ふじさき やすひこ、1968年7月11日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(外野手)。 豊国学園高では2年春に県北部大会決勝で延長10回完投勝利、3年夏は準決勝で西村秀嗣が先発の柳川高に勝利したが、決勝で石貫宏臣と青柳進のバッテリーを擁する西日本短大付高に敗退。高校卒業後は社会人野球の新日本製鐵八幡に入団。1990年の第61回都市対抗野球大会では、1回戦・2回戦とも7番ライトで先発出場。2回戦の対大阪ガス戦では、当時ホームランの出にくい球場とされていた東京ドームの左翼上段に特大ホームランを放ち、これがプロ入りのきっかけになったとされている。この大会では7打数3安打の記録を残した。
柴田 晃(しばた あきら、1943年9月22日 - )は、福… 柴田 晃(しばた あきら、1943年9月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。 豊国高校から1962年に東映フライヤーズへ入団。1965年に退団した。
宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 20… 宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 2016年1月8日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。晩年の姓は「村上」。 通算代打安打数の日本記録(186本)保持者で、引退後は30年以上に渡り、広島のスカウトを務めた。 豊国学園高校から門司鉄道管理局に進む。 1957年から右翼手、三番打者として2年連続で都市対抗に出場。 1959年オフに広島カープへ入団。広島入団に際しては、ノンプロでライバルであった八幡製鐵の加藤喜作監督が、「あいつがいたのでは、うちは都市対抗に出れん」と、広島に話を持ちかけた、といういきさつがある。 卓越した打撃技術を買われ、背番号は新人ながら「2」に決まったが、入団当時の広島には宮川と同じ左打ちの外野手が多かった。
笠石 徳五郎(かさいし とくごろう、1924年5月25日 -… 笠石 徳五郎(かさいし とくごろう、1924年5月25日 - 没年不詳)は、福岡県出身のプロ野球選手。 豊国商業学校から1943年に阪急軍へ入団。 1946年に中部日本でプロ野球に復帰するが、1948年限りで退団し、八幡製鉄に入社。 1950年に西鉄クリッパースでプロ復帰。翌年に退団し、その後は東洋高圧でプレーした。 2010年に発行された『ライオンズ60年史』によると、既に故人とのこと。
天保 義夫(てんぽ よしお、1924年4月25日 - 199… 天保 義夫(てんぽ よしお、1924年4月25日 - 1999年12月30日)は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)。 豊国商業から1942年に阪急へ入団。1943年5月2日の対南海戦でノーヒットノーランを記録。同年のシーズンでは11勝(16敗)を挙げ、防御率2.01でリーグ8位に入った。しかし、1944年に工場での勤労奉仕の作業中に製材用の歯車に巻き込まれ、右手中指と薬指、左手の人差し指と中指の計4本の指の先端を欠損してしまった。 この状況の中で戦後プロ野球に復帰するが、指先の欠損によりカーブが切れを失ってしまったため、海外の情報が乏しい中で独自にナックルボールの習得を決意。本に書いてあるとおりに球を握り、戦後の住宅事情が悪い中、自宅の押し入れに布団を積み重ね、2-3mの所から布団めがけて全力投球する練習を繰り返す。
金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 19… 金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県(朝鮮・慶尚南道晋陽郡生まれ)出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。
大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 19… 大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。 1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。