スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
北津留 翼(きたつる つばさ、1985年4月26日 - )は… 北津留 翼(きたつる つばさ、1985年4月26日 - )は、福岡県北九州市出身の競輪選手、自転車競技選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第90期生。日本競輪選手会福岡支部所属、ホームバンクは小倉競輪場。血液型O型。既婚。愛称は「つっつん」。 家族は妻と子供3人。長女はガールズケイリン選手の北津留千羽(128期)。 豊国学園高等学校(吉岡稔真、園田匠の後輩にあたる)時代はインターハイスプリント、国体スプリントなどタイトルを総なめし、世界ジュニア選手権でもスプリントとケイリンの2冠に輝いた。 高校3年生の10月から半年間、スイスにある自転車競技の国際的トレーニング施設WCC(ワールド・サイクリング・センター)へ自転車留学。
園田 匠(そのだ たくみ、1981年9月22日 - )は、競… 園田 匠(そのだ たくみ、1981年9月22日 - )は、競輪選手。福岡県築上町出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第87期生。日本競輪選手会福岡支部所属、ホームバンクは小倉競輪場。師匠は吉岡稔真(65期)。 妻は行橋市市議会議員の園田良恵(2024年 - )。ほか、子供は3人。 豊国学園高等学校を経て、高校の先輩である吉岡稔真に師事した後、競輪学校に入学。同期に平原康多、内田慶らがいる中で在校競走成績は6勝を挙げ、第48位となる。 2002年8月14日、地元・小倉競輪場でデビューし、初出走で初勝利を挙げた。 2012年に開催された第65回日本選手権競輪(熊本競輪場)では、GIとしては初めて決勝戦に進出し、3着に入った。
SHOGO(ショーゴ、本名:木下 将吾(きのした しょうご)… SHOGO(ショーゴ、本名:木下 将吾(きのした しょうご)、1980年3月24日 - )は、日本のミュージシャン、歌手である。175Rのボーカリスト。福岡県北九州市小倉北区出身。豊国学園高等学校卒業。2009年175Rとして北九州市の観光大使にも任命された。 元妻は元SPEEDで参議院議員の今井絵理子。2004年6月に結婚。同年10月に長男・今井礼夢が誕生したものの2007年9月24日に離婚を発表。 2010年9月に175Rの活動休止を発表。12月30日に幕張メッセにて行われたCOUNTDOWN JAPAN 10/11の出演を最後に活動休止をした。 2014年1月 玉置浩二と共作した1st SOLO Single「太陽」でソロデビュー。
柿本 倫明(かきもと みちあき、1977年10月6日 - )… 柿本 倫明(かきもと みちあき、1977年10月6日 - )は、福岡県京都郡みやこ町(旧犀川町)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード (FW)。 大阪体育大学在学中の1999年、ユニバーシアードマヨルカ大会で日本代表に選出され2ゴールをあげるなど活躍し、2000年、J1・アビスパ福岡へ入団。しかし、出場機会を得られないまま1年で戦力外通告を受け退団、シンガポールリーグのクレメンティー・カルサFCに移籍した。そこで29試合に出場し14得点と結果を出すと、福岡在籍時にサテライト監督を務めていた当時の大分トリニータ監督、小林伸二から声がかかり、2002年シーズンからJリーグに復帰。
吉岡 稔真(よしおか としまさ、1970年6月15日 - )… 吉岡 稔真(よしおか としまさ、1970年6月15日 - )は、日本の元競輪選手。現在は競輪解説者・評論家。福岡県北九州市小倉南区出身。血液型はA型。座右の銘は「不動心」。 日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第65期卒業。現役時は日本競輪選手会福岡支部所属。師匠は森山慎雄。初出走は1990年4月7日、小倉競輪場。初勝利は1990年5月27日。 通算成績1279戦中586勝、生涯獲得賞金は歴代3位となる16億8866万4299円だった。 2007年1月12日、選手登録削除。 弟の啓史(75期)、邦彦(84期)も、ともに元競輪選手。 豊国学園高等学校卒業後に競輪学校へ入学。高校時代には特にスポーツ経験はなかったが、競輪学校在学中に頭角を現し、競走成績2位で卒業(1位は山本真矢、卒業記念レース優勝者は適性入学者の古川圭)。
鬼塚 勝也(おにづか かつや、1970年3月12日 - )は… 鬼塚 勝也(おにづか かつや、1970年3月12日 - )は、日本の元プロボクサー。現在は画家として活躍中。福岡県北九州市出身。元WBA世界スーパーフライ級王者。愛称は「SPANKY(スパンキー)K」。 中学生の時からボクシングジムに通い始め高校で豊国学園ボクシング部に入部。2年生時にインターハイ・ライトフライ級で優勝。春休み時に単身上京。自らの足で東京都内のボクシングジムを回る。この時ヨネクラボクシングジムでスパーリングしてもらった相手が後の日本タイトルマッチに挑戦した中島俊一である。協栄ボクシングジムではスパーリングの相手をしたプロ選手を倒したのを見てトレーナーの古口哲がジムにスカウトする。
藤崎 靖彦(ふじさき やすひこ、1968年7月11日 - )… 藤崎 靖彦(ふじさき やすひこ、1968年7月11日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(外野手)。 豊国学園高では2年春に県北部大会決勝で延長10回完投勝利、3年夏は準決勝で西村秀嗣が先発の柳川高に勝利したが、決勝で石貫宏臣と青柳進のバッテリーを擁する西日本短大付高に敗退。高校卒業後は社会人野球の新日本製鐵八幡に入団。1990年の第61回都市対抗野球大会では、1回戦・2回戦とも7番ライトで先発出場。2回戦の対大阪ガス戦では、当時ホームランの出にくい球場とされていた東京ドームの左翼上段に特大ホームランを放ち、これがプロ入りのきっかけになったとされている。この大会では7打数3安打の記録を残した。
柴田 晃(しばた あきら、1943年9月22日 - )は、福… 柴田 晃(しばた あきら、1943年9月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。 豊国高校から1962年に東映フライヤーズへ入団。1965年に退団した。
髙城 壽雄(たかぎ としお、1938年 - )は、日本の発明… 髙城 壽雄(たかぎ としお、1938年 - )は、日本の発明家、実業家。タカギ創業者で、同社代表取締役社長を経て、代表取締役会長。経営法博士。 福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)出身。3歳のときマレー作戦で父を亡くし、愛媛県新居浜市の母方の伯父の養子となる。福岡県立門司東高等学校在学中から、発明で多数の受賞をしたが、部の備品を破壊するなどの校内暴力で2度の無期限謹慎処分を受けたのち退学。 1956年に小倉豊国高等学校卒業後、上京してトラック運転手として働きながら東京都大井職業訓練所ラジオ・テレビ科で学んだのち、無線工業(現ディーアンドエムホールディングス)に入社。その後、小倉に戻り22歳で家電製品修理業を起業。
宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 20… 宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 2016年1月8日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。晩年の姓は「村上」。 通算代打安打数の日本記録(186本)保持者で、引退後は30年以上に渡り、広島のスカウトを務めた。 豊国学園高校から門司鉄道管理局に進む。 1957年から右翼手、三番打者として2年連続で都市対抗に出場。 1959年オフに広島カープへ入団。広島入団に際しては、ノンプロでライバルであった八幡製鐵の加藤喜作監督が、「あいつがいたのでは、うちは都市対抗に出れん」と、広島に話を持ちかけた、といういきさつがある。 卓越した打撃技術を買われ、背番号は新人ながら「2」に決まったが、入団当時の広島には宮川と同じ左打ちの外野手が多かった。
笠石 徳五郎(かさいし とくごろう、1924年5月25日 -… 笠石 徳五郎(かさいし とくごろう、1924年5月25日 - 没年不詳)は、福岡県出身のプロ野球選手。 豊国商業学校から1943年に阪急軍へ入団。 1946年に中部日本でプロ野球に復帰するが、1948年限りで退団し、八幡製鉄に入社。 1950年に西鉄クリッパースでプロ復帰。翌年に退団し、その後は東洋高圧でプレーした。 2010年に発行された『ライオンズ60年史』によると、既に故人とのこと。
天保 義夫(てんぽ よしお、1924年4月25日 - 199… 天保 義夫(てんぽ よしお、1924年4月25日 - 1999年12月30日)は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)。 豊国商業から1942年に阪急へ入団。1943年5月2日の対南海戦でノーヒットノーランを記録。同年のシーズンでは11勝(16敗)を挙げ、防御率2.01でリーグ8位に入った。しかし、1944年に工場での勤労奉仕の作業中に製材用の歯車に巻き込まれ、右手中指と薬指、左手の人差し指と中指の計4本の指の先端を欠損してしまった。 この状況の中で戦後プロ野球に復帰するが、指先の欠損によりカーブが切れを失ってしまったため、海外の情報が乏しい中で独自にナックルボールの習得を決意。本に書いてあるとおりに球を握り、戦後の住宅事情が悪い中、自宅の押し入れに布団を積み重ね、2-3mの所から布団めがけて全力投球する練習を繰り返す。
金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 19… 金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県(朝鮮・慶尚南道晋陽郡生まれ)出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。
大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 19… 大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。 1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。
毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 19… 毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 1931年3月20日)は、日本の俳優である。本名は毛利 隆(もうり たかし)。旧芸名は毛利 多加志(読み同じ)。松竹蒲田撮影所のサイレント映画で活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1907年(明治40年)11月30日、福岡県門司市新町(現在の同県北九州市門司区)に生まれる。実父は歯科医を営んでいた。 豊国中学校(現在の豊国学園高等学校)を卒業して上京し、法政大学予科に入学するが、病気のため中退。1927年(昭和2年)、本名の毛利隆名義で阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に入り大部屋俳優となる。その後、毛利多加志を名乗って小澤映画聯盟、岡田嘉子・竹内良一一座を経て、1929年(昭和4年)7月、松竹蒲田撮影所へ入社。