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田中 和基(たなか かずき、1994年8月8日 - )は、福… 田中 和基(たなか かずき、1994年8月8日 - )は、福岡県福岡市早良区出身のプロ野球選手(外野手)。右投両打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 NPBにおける平成最後の左右打席本塁打達成者。 福岡市立高取小学校3年時に、原少年野球部で野球をスタート。福岡市立高取中学校への入学当初は硬式野球の福岡ウイングスに所属していたが、1年の夏から校内の軟式野球部へ転じた。 西南学院高校への進学後は、両打ちの捕手として、対外試合で通算18本(右打席で10本、左打席で8本)の本塁打を放った。在学中の甲子園大会への出場はなかった。 立教大学への進学後は、硬式野球部での生活を四軍扱いの「D班」からスタートし、東京六大学野球リーグ戦へのベンチ入り可能な「A班」へ昇格したのは、2年時の夏になってからだった。
高島 正義(たかしま まさよし、1938年2月7日 - 没年… 高島 正義(たかしま まさよし、1938年2月7日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 西南学院高校では、1956年に春季九州大会県予選南部準決勝に進むが修猷館高に敗退。卒業後は門司鉄道管理局に進み、都市対抗などで活躍。この時のチームメートに宮川孝雄がいた。 1960年に東映フライヤーズへ入団。1年目から西園寺昭夫の控え三塁手として起用され、6月からは西園寺の故障もあって26試合に先発出場。その後は一時低迷するが、1963年には準レギュラーとして復帰。1964年は二塁手も兼ね自己最多の124試合に出場、うち32試合に先発する。翌1965年は主に守備固めとして出場、1966年限りで引退。
岡本 健治(おかもと けんじ、1933年〈昭和8年〉2月15… 岡本 健治(おかもと けんじ、1933年〈昭和8年〉2月15日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 西南学院高校から日鉄二瀬を経て、1952年に西鉄ライオンズへ入団。 しかしプロ初登板の試合で二者連続四球を出して降板。結果的にこれがプロ唯一の登板となった。 1954年に引退。その後はノンプロに参加した後、起業。「岡本食品機器販売」の社長を務めている。
滝口 豊広(たきぐち とよひろ、1927年12月22日 - … 滝口 豊広(たきぐち とよひろ、1927年12月22日 - 没年不明)は、福岡県出身の元プロ野球選手。 戦前の来歴は不明。戦後の1946年に西南学院中学部に入学するが、小倉中学監督の鬼塚格三郎にその才能を見出され、鬼塚の推薦で1947年に明治大学に入学。入学時すでに20歳と高齢だったため、若手捕手との争いに敗れ、主にブルペン捕手として活躍した。同期には牧野茂、山崎善平、菅原道裕などがいた他、1学年下に実弟が在籍していた。 明大専門部卒業後、同郷の先輩の誘いで1949年に大映スターズへ入団。しかしプロでもブルペン捕手としての起用が中心で、1軍出場は1試合のみだった。 その後は門司鉄道局でプレー。1952年、1953年の全国鉄硬式野球大会にも出場している。