スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
徳丸 哲史(とくまる さとし、1973年8月9日 - )は、… 徳丸 哲史(とくまる さとし、1973年8月9日 - )は、大分県出身の元社会人野球選手(投手)。右投右打。 臼杵高では2年夏にエースとして県大会ベスト4、3年夏は県大会決勝へ進むが柳ヶ浦高の岡本克道と投げ合って敗れた。明治大学に進学、野球部でプレーした。3年次には春のリーグ戦で優勝に貢献する活躍を見せている。高校からの2学年先輩に鳥越裕介がおり、同期にはバッテリーを組んだ野村克則や中村豊が、1学年下に筒井壮、2学年下に川上憲伸らがいた。 大学卒業後の1996年に三菱自動車川崎に入社。チームのエースとして同僚の谷村逸郎らと投手陣の屋台骨を支え、第70回都市対抗野球では東芝の補強選手として、第71回・第74回・第76回は自チームで優勝に貢献した。
鳥越 裕介(とりごえ ゆうすけ、1971年7月1日 - )は… 鳥越 裕介(とりごえ ゆうすけ、1971年7月1日 - )は、大分県臼杵市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 愛称は「トリさん」「ゴエ」。 現役引退後は福岡ソフトバンクホークス・千葉ロッテマリーンズでコーチ、二軍監督を務めた。その後は野球解説者として活動したのち、2025年シーズンからは埼玉西武ライオンズの一軍ヘッドコーチを務める。 大分県立臼杵高等学校を経て明治大学へ進学。大学時代は「3番・遊撃手」として活躍し、1991年の第20回日米大学野球選手権大会、1993年の第22回日米大学野球選手権大会おいては小久保裕紀や井口資仁らとともに全日本メンバーにも選ばれる。リーグ
広瀬 真二(ひろせ しんじ、1965年3月17日 - )は、… 広瀬 真二(ひろせ しんじ、1965年3月17日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 臼杵高から、九州産業大学へ進むも中退し社会人野球のあけぼの通商入りするが、解散し九州三菱自動車を経て、1988年オフにドラフト外で福岡ダイエーホークスへテスト入団。 一軍公式戦への出場がないまま、1990年限りで現役を引退。引退後は、球団に残り打撃投手を務めた。 2005年に大分ソーリンズ野球倶楽部のテストに合格し、最年長選手となった。2006年に酒気帯び運転などの罪で逮捕。
川野 雄一(かわの ゆういち、1950年12月16日 - )… 川野 雄一(かわの ゆういち、1950年12月16日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(捕手)。 臼杵高校では、遊撃手であったが捕手に転向。1968年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、大田卓司のいた津久見高に完封を喫する。 強肩と正確なスローイングは定評があり、打撃もシュアで高校時代の通算打率は3割8分。ランニングもベース一周14秒台の俊足であった。 社会人野球の丸善石油の就職が内定していたが、1968年のプロ野球ドラフト会議で西鉄ライオンズから8位指名を受け入団。 プロ1年目の1969年にはジュニアオールスターにも出場する。1970年に一軍に上がり、1973年、1974年にはそれぞれ10試合に先発マスクを被るが、宮寺勝利、片岡新之介らの壁を破れず、1975年限りで現役を引退した。
和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009… 和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009年6月22日)は、大分県臼杵市出身(鹿児島県生まれ)のプロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ・監督、評論家。 1955年から1956年までの登録名は和田 博美。 鹿児島で生まれたが、父親の転勤で幼少時に臼杵へ転居。小学校5年から捕手となり、臼杵高校でも野球部に入部するが、父が「息子を医者にさせたい」と考えており一旦退部。後に「血を見るのは苦手だった」という事情で野球部に復帰。捕手として2年次の1953年に秋季九州大会へ進むが、1回戦で長崎商に延長15回サヨナラ負け。3年次の1954年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き東九州大会に進出するが、1回戦で黒木基康のいた高鍋高に完封を喫し、甲子園には届かなかった。
和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009… 和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009年6月22日)は、大分県臼杵市出身(鹿児島県生まれ)の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ・監督、評論家。
小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1… 小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1999年11月16日)は、大分県津久見町(現・津久見市)出身のプロ野球選手、高校野球指導者。2020年現在、九州(沖縄除く)で唯一、春夏の甲子園大会で優勝を経験している高校野球監督。 1921年7月7日、津久見町に生まれた。少年時代から野球センスが高く、1933年に開催された北海部郡少年野球大会ではエースとして、津久見小学校を優勝に導いた。津久見小学校卒業後、臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に入学してここでもエースとしてチームを引っ張ったが、甲子園の壁は厚く、遂に在学中に出場を果たす事は出来なかった(大分県予選に出場していたが、1936年夏は大分商業(現・大分県立大分商業高等学校)に1-19、1937年夏は大分工業(現・大分県立大分工業高等学校)に4-8といずれも1回戦で大敗している)。