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森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21… 森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21日 - 1979年〈昭和54年〉11月24日)は精神科医、地域医療と社会福祉を推進した教育者。兵庫県西宮市に兵庫医科大学を創設、理事長、学長、病院長を歴任した。 精神科医森村真澄・豊の一人っ子として兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で生まれる。尼崎市第三尋常小学校から兵庫県立第一神戸中学校(現神戸高校)を経て第三高等学校(現京都大学)に進んだ。卒業した1936年(昭和11年)は京都帝国大学文学部哲学科に合格したが方向転換、翌年、東京帝国大学医学部に入学、1941年(昭和16年)卒業、精神病学教室主任教授で東京都立松沢病院長を兼務する内村祐之の指導を受け、東大病院精神病学講座の副手嘱託となる。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1… 佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、建国大学助教授などを務めた。 愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)。京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。 1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国の建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した。 終戦まで建国大学に在職。
岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3… 岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3月1日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、日本の教育者。 大阪府出身。第三高等学校を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、岐阜県尋常中学校教諭、第六高等学校教授、第八高等学校校長、第二高等学校校長を歴任。1928年(昭和3年)、第六高等学校長に就任した。1935年(昭和10年)に退官した後は、第六高等学校名誉教授の称号を受けた。建築家の岡野寛次(竹中工務店)は弟儀助の養子となった次男である。
山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明… 山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明治4年10月10日) - 1942年(昭和17年)7月12日)は、日本の倫理学者、教育者。号は「晁水」。 1871年、石川県金沢市鶴間谷で生まれた。石川県専門学校および後身の第四高等中学校に学ぶも中退。中学校では鈴木大拙・西田幾多郎・藤岡作太郎と同窓であった。帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、1895年に修了。 同1895年に京都府立尋常中学校教諭に就いた。1897年に静岡県尋常中学校教諭となり、修身ならびに英語を担当 1900年に京都府立第二中学校教頭となった。1908年に京都帝国大学学生監。1909年に第三高等学校教授を兼任し、倫理学を講じた。
由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月… 由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月10日) - 昭和5年(1930年)4月7日)は、日本の教育者。称号は従三位勲二等。 高知県土佐郡神田村(現・高知市)出身。第三高等学校を経て、1896年(明治29年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。山口高等学校教授・舎監、千葉県千葉中学校校長、第五高等学校教授・生徒監、第三高等学校教授、松山高等学校校長、第七高等学校造士館校長を歴任した。 1930年(昭和5年)、鹿児島市で講演中に脳溢血で倒れて急逝。墓所は染井霊園1-イ-4-19。同所には兄である陸軍大将由比光衛の墓もあり、右側の墓石が質のものである。
森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元… 森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元年8月1日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月6日)は石川県出身の数学者であり教育者。第三高等学校校長などを務めた。 1865年、石川県金沢に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)に同大学数学科を卒業。1892年(明治25年)には同郷の友人である香村小録に桜井一久の妹・倉を紹介、結婚に至る。 三重県尋常中学校教諭となった外三郎は、第三高等学校や学習院などで教授を歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ・ドイツに留学し、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。
酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861… 酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861年11月23日) - 大正7年(1918年)12月28日)は、日本の教育者。位階および勲等は従三位・勲二等。 高知県出身。1883年(明治16年)、東京大学理学部物理科を卒業した。茨城県第一中学校校長、海軍教授、第三高等学校教授を歴任。1899年(明治32年)、第六高等学校校長に就任し、1910年(明治43年)に第三高等学校校長に転任した。
高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万… 高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万延元年8月15日〉 - 1949年〈昭和24年〉2月28日)は、日本の化学者、教育者。香川県尋常中学校校長、第三高等学校(現・京都大学)教授等を歴任。第三高等学校名誉教授。 旗本永井左門の代官であった河内国大和田庄野口村(現・門真市)在住の漢学者・高橋俊太郞篤敬の長男として生まれる。父篤敬は柔術剣術の目録を取り、囲碁の才に長け、江戸で近藤真琴に就いて算術・代数学を、明治維新後は敷田年治の門人として国学を学び、明治4年(1871年)より堺県に出仕、新暦1874年(明治7年)より奈良県学校掛となり、一時は奈良師範学校長を務めた博学多芸の人物であった。
折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日(1849年1… 折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日(1849年1月27日) - 1920年(大正9年)1月26日)は、明治時代に活動した日本の教育者・文部官僚。旧制第三高等学校(三高/現・京都大学)の初代校長として知られている。その前身校も含めれば約30年間にわたって三高の校長を務め、同校の「自由の学風」を築いたとされる。 嘉永2年(1849年)1月4日 、薩摩藩士折田寧剛の四男として薩摩国鹿児島で生まれた。青年期までの名として彦市のほかに三之丞・権蔵があり、諱は年長であった。少年期には家族の縁に恵まれず、父は安政5年(1858年)に没し、母も慶応元年(1865年)に世を去っている。長兄の年昭に子がなかったため、その養子となっている。