中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - … 中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - 1936年(昭和11年))は、大分県由布市の由布院温泉で油屋熊八とともに旅館亀の井別荘を開いた実業家。 加賀国片山津(現在の石川県加賀市)出身。実家は裕福な十村庄屋加賀・中谷家の分家筋であったが、巳次郎は資産を蕩尽した挙げ句、別府市に流れ着く。実家の骨董品を並べて不老町で骨董屋を開き、そこで、亀の井旅館(のちの亀の井ホテル)の経営者で別府温泉の観光開発に尽力した油屋熊八に出会い、意気投合し、その片腕となる。1921年(大正10年)、熊八が大阪の資産家に話を持ち掛けて買わせた由布院温泉の金鱗湖畔の土地に、賓客をもてなすための草庵が建てられ、巳次郎はそれを託される。
湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - … 湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - 1917年(大正6年))は、日本の農民・慈善家。奨学資金を寄付した。 福井県大飯郡高浜町宮崎出身。父祖の農業に没頭し、斯業の改善と公共の利益に多大の貢献があった。1899年、卒先して耕地整理の実行につとめ、労費を悋まず、遂に10数町歩を完了した。奨学資金5000円を義捐した。高浜町に尽くした事は枚挙にいとまがない。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈… 安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈1869年〉 - 昭和14年〈1939年〉)は、日本の神職。安積国造神社第61代宮司(社司)。 明治2年(1869年)生まれ。福島県尋常中学校(のち福島県立安積高等学校)の2期生。2期下でのち歴史学者となる朝河貫一と親交を深めた。国学者久米幹文に皇学を、渡辺重石丸に和漢学を、林甕臣に国語学を学んだ。 1889年(明治22年)、家業たる安積国造神社の祠官となる。1895年(明治28年)、開成山大神宮社司を兼補。 1912年(明治45年 / 大正元年)、福島県神職養成所を設立し所長に就任。 1923年(大正12年)3月17日、内閣より奏任官待遇を受ける。
林 和太郎(はやし わたろう、1869年(明治2年) - 1… 林 和太郎(はやし わたろう、1869年(明治2年) - 1918年(大正7年)3月10日)は、明治期の鉄道官吏(帝国鉄道庁参事)。 筑前国(現・福岡県福岡市)生まれ。福岡中学を経て、1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、福岡新報の前身である福陵新報に入社。小幡篤次郎のすすめで山陽鉄道に入り、鉄道国有化に伴い帝国鉄道庁(のち鉄道院)に移った。1907年(明治40年)、同庁参事(高等官六等)に叙任され、運輸部運転課勤務。1909年(明治42年)1月、鉄道院を依願退官し、玉川電気鉄道の取締役に転じた。
占部 百太郎(うらべ ひゃくたろう、1869年〈明治2年〉 … 占部 百太郎(うらべ ひゃくたろう、1869年〈明治2年〉 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は、日本の西洋史学者。 福岡県遠賀郡岡垣村出身。1894年慶應義塾大学部文学科卒。 時事新報、日本新聞などの記者をへて、1899年大学部教務掛。 1911年に大学部文学科教員となった。図書館監督も務め、1923年に理事、1926年に高等部主任となり、1940年に退職した。
尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 19… 尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 1957年〈昭和32年〉4月28日)は、日本の教育者。錦鶏間祗候。 新潟県に上田義信の長男として生まれ、尾田信通の養子となった。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍教授となり、東京陸軍地方幼年学校教頭、教育総監部出仕を経て、陸軍士官学校教頭を務めた。 1935年(昭和10年)4月8日に退官し、翌年に錦鶏間祗候となった。 1957年(昭和32年)4月、脳溢血で死去した。
吉村 平造(よしむら へいぞう、1869年(明治2年) - … 吉村 平造(よしむら へいぞう、1869年(明治2年) - 1935年(昭和10年)7月23日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。号は胆南。 近江国坂田郡柏原村(現在の滋賀県米原市)出身。生家は中山道で代々脇本陣を営んでいた。明治法律学校(明治大学)卒業。大阪朝日新聞社の政治記者として、義和団事件や日露戦争の際に従軍記者として活躍した。保険会社重役などを経て、大阪市助役(1906年5月 - 1909年9月)、第11代広島市長(1915年1月22日 - 1916年12月25日)などを務めた。 市長退任後、久原本店勤務を経て、北日本鉱業専務を務めた。 息子に、フランス文学者の吉村正一郎や映画監督の吉村公三郎などがいる。
高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年… 高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年3月) - 1929年(昭和4年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲三等・功四級。 新潟県頚城郡高田町(現在の上越市)出身。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。 1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・中津連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に歩兵第14連隊長(第12師団、歩兵第12旅団)に任官し、シベリア出兵に従軍。ハバロフスクおよびブラゴベシチェンスクを占領した。ついで1921年(大正10年)6月に陸軍少将に進級と同時に待命、同年10月に予備役に編入した。
19代 木村庄之助(じゅうきゅうだい きむら しょうのすけ、… 19代 木村庄之助(じゅうきゅうだい きむら しょうのすけ、明治2年〈1869年〉 - 1932年〈昭和7年〉5月30日 )は、大相撲の立行司の一人。木村庄之助としての在位期間は1926年1月 - 1932年5月。所属は若藤部屋 - 友綱部屋 - 入間川部屋 - 出羽ノ海部屋。 東京府本所(現・東京都墨田区両国)出身。本名は鬼頭多喜太。骨董商の家に生まれたが、9代式守伊之助の弟子となり、1881年若藤部屋に入門し行司となる。1885年1月場所、式守多喜太の行司名で番付についた。 名行司として知られ、立行司昇格まで長く5代式守与太夫の名を名乗り、3代式守勘太夫、3代式守錦太夫とともに「名行司三太夫」と呼ばれていた。