ナンシー関(ナンシーせき、本名:関 直美(せき なおみ)、女… ナンシー関(ナンシーせき、本名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、日本の版画家、コラムニストである。青森県青森市生まれ。法政大学文学部第二部(夜間部)中退。 独特の観察眼による「テレビ批評」とその挿絵に入れた著名人の似顔絵「消しゴム版画」で社会そのものを批評していた。世界初の消しゴム版画家である。 青森県青森市に三人きょうだいの長女として生まれた。2歳下の妹と7歳下の弟がおり、父親は同郷のプロボクサーのレパード玉熊の後援会会長を務めていた。言葉は早く、2-3歳のころには一人で絵本を読んでいた。1969年、青森市立堤小学校に入学。同級生によれば、性格は他の生徒より大人びていたという。
孫内 あつし(まごない あつし、1940年 - 2025年1… 孫内 あつし(まごない あつし、1940年 - 2025年12月1日)は、もっぱらクレヨン画によって知られた日本の画家。 青森市生まれ。生家は遊郭街に近い神社で、次男として生まれた。 1958年に東奥義塾高等学校を卒業し、1960年に美術担当として青森放送に入社し、1972年に退社するまで、自社制作番組の美術制作に携わった。 青森放送退社後は、青森市を中心に、複数の飲食店やブティックを経営するかたわら、クレヨン画による創作活動を始めた。 1990年、初の個展を、青森市の五拾壹番館ギャラリーで開催した。 1992年以降、公募展に入選するようになり、1993年には東京都に転居して、1996年からは東京でも個展を開くようになった。
小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11… 小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11月29日 - 2003年(平成14年)10月8日)は青森県出身の洋画家。梶井基次郎の作品「檸檬」に因んで檸檬をモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれる。 青森市生まれ。旧制青森中学校(青森県立青森高等学校)在学中、南部公鎮に師事。1932年(昭和7年)に旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上卒業。同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師。 1938年(昭和13年)、第13回国画会展に初入選。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5… 棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5日 - 1975年〈昭和50年〉9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。 青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。 棟方は、昭和26(1951)年11月、疎開先の富山県福光町から鈴木信太郎の旧アトリエだった荻窪四丁目57番地(現・上荻一丁目)の家に移り、昭和50(1975)年9月13目、72歳で亡くなるまで杉並に住んでいた。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。