熊谷 太雅(くまがい たいが、2006年10月17日 - )… 熊谷 太雅(くまがい たいが、2006年10月17日 - )は、宮城県登米市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。左投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。 登米市立石越中学校を経て、東陵高校へ進学。 東陵高校では入学早々、左肘の怪我に見舞われた。2年春も2年夏も熊谷はベンチ外であり、いずれもチームは県大会準決勝で仙台育英にコールド負け。2年秋の地区予選初戦で公式戦初登板を果たすと、県大会準々決勝では仙台育英を相手に1失点完投勝利を挙げた。続く準決勝と3位決定戦にも先発したが、いずれもリードを許して降板し、チームも敗戦。3年夏の宮城大会では聖和学園との準々決勝で敗退した。甲子園出場経験はなし。 2024年10月24日に開催されたドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから育成12位指名を受けた。
佐藤 貴博(さとう たかひろ、1983年 - )は、宮城県登… 佐藤 貴博(さとう たかひろ、1983年 - )は、宮城県登米市出身の日本の野球指導者。岡山学芸館高等学校社会科教諭。 登米市立中田中学校卒業後は、仙台育英学園高校に進学。高校時代の同級生には後に仙台育英高校野球部の監督を務める須江航がいた。在学時には、1年夏、2年夏、3年春夏の4度甲子園大会に出場。特に3年春の選抜大会では準優勝の成績を収めている。 高校卒業後は、首都大学野球連盟所属の城西大学に進学。2年秋の明治神宮野球大会に出場。 大学卒業後の2006年から2011年迄は岡山県の岡山県作陽高校に勤務。野球部のコーチや部長を務めた。 2013年からは、岡山学芸館高校に赴任。部長を務め、2018年夏の大会終了後からは監督に就任。
後藤 伸也(ごとう しんや、1982年9月6日 - )は、宮… 後藤 伸也(ごとう しんや、1982年9月6日 - )は、宮城県登米市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学4年の時に野球を始め、中学1年から投手となる。東北高校では2年次に選抜高校野球に外野手として出場。秋からはエースとなり、渡辺雅弘とのバッテリーで県大会優勝、東北大会では準々決勝で光星学院に延長11回サヨナラ負け。2000年の春季県大会の仙台育英高戦で17奪三振を記録し、春の東北大会も制した。夏は決勝で仙台育英高に敗退。同年のドラフト会議にて3位で横浜ベイスターズに指名された。ダイエーに指名された加藤暁彦は高校時代のチームメイト。 2001年10月11日の中日ドラゴンズ戦で初登板を果たす。翌2002年8月4日の中日戦でプロ初勝利を挙げる。
眞山 龍(まやま りゅう、1981年6月5日 - )は、宮城… 眞山 龍(まやま りゅう、1981年6月5日 - )は、宮城県豊里町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 仙台育英高校時代には2年夏県大会準決勝で2番手として登板したが仙台高の丹野祐樹に完投されて敗退。秋は県大会決勝を延長10回完投勝利して優勝すると東北大会はベスト4。3年夏は県大会準決勝で仙台高を6回コールド完封で雪辱すると優勝、1999年夏の甲子園にエースとして出場。1回戦の佐賀東高校戦では完封勝利を挙げた。2回戦では正田樹、一場靖弘を要する桐生第一高校戦では四球から崩れ、8回7失点でマウンドを降りた。後続投手も打ち込まれ、結局11-2と大敗を喫した。1999年のドラフト会議にて西武ライオンズから2位指名を受け入団。
白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は… 白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高時代は、1年秋の県大会決勝で先発したが途中降板して敗退。以後は登板なく東北大会は優勝して1983年春の甲子園に出場。また1984年夏の甲子園にも出場するが、いずれも登板機会はなかった。このときはエースナンバーを付けていたが、1年下の佐々木主浩が実質エースのため、控え投手扱いであった。 高校卒業後は、社会人野球の住友金属鹿島に入団。1990年と1993年に日立製作所の補強選手として都市対抗野球大会に出場。1990年は準々決勝で先発して3回を投げたがチームは延長の末に敗退。1993年はエースの斎藤充弘の救援として初戦から登板したが2回戦で熊谷組に敗れた。
佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は… 佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。 佐沼高校から一般企業への就職が内定していたが、一転して1971年のドラフト10位でロッテオリオンズに入団。弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。1980年以降は一軍出場もなくなり、1982年限りで現役を引退。 引退後もオリオンズ(川崎)→マリーンズ(千葉)とロッテ一筋で、現役時代から並行して行ってきたブルペン捕手や二軍コーチ補佐(1987年 - 1990年)、二軍コーチ(1991年)、一軍ブルペンコーチ(1992年, 1999年 - 2000年)、二軍バッテリー兼育成コーチ(1993年、二軍バッテリー育成担当コーチ(1994年)、一軍バッテリーコーチ補佐(1996年)、二軍総合コーチ(2001年)、一軍バッテリーコーチ(1998年途中, 2002年)、二軍監督(2003年)を歴任。
長野 哲(ながの さとし、1949年7月5日 - )は、宮城… 長野 哲(ながの さとし、1949年7月5日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 佐沼高校では1966年、2年生の時に夏の甲子園県予選3回戦で、宮城水産高を相手に2四球、1失策のノーヒットノーランを達成し勝利。県予選を勝ち抜き東北大会準決勝に進むが、福島商に0-1で敗退し、甲子園出場を逸する。翌年夏は県予選で敗れた。 1967年ドラフト会議でサンケイアトムズから8位指名を受けるが拒否し、熊谷組へ入社。藤津靖雄、大櫃照彦など好投手が多く、なかなか大舞台は踏めなかったが、1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会では、全東京選抜の抑えとして登板、全神奈川選抜に快勝した。 1968年ドラフト会議で大洋ホエールズから5位指名を受け入団。
千葉 剛(ちば つよし、1948年4月25日- )は、宮城県… 千葉 剛(ちば つよし、1948年4月25日- )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高では末永幸士投手(国士舘大学)と同期だったが、甲子園には出場できなかった。 1966年のプロ野球第1次ドラフト会議で東映フライヤーズから5位指名を受けたが、入団を拒否し社会人野球の日本鉱業日立へ入団する。 1968年の都市対抗野球に出場し、1回戦でリリーフとして登板するが日本新薬に敗れる。翌1969年の都市対抗野球にはエースとして出場するが、同じく1回戦で三菱重工名古屋に敗退した。 1969年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受け入団。 シュート、カーブが武器の本格派で、スライダーをプロ入り後に習得する。