朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014… 朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。the companyのアソシエイツメンバー。 東京府東京市下谷区谷中(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。 父・朝倉文夫により幼い頃から英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が彼女の中に擡げてきたところがあり、それにより日本画家として生きていかんとする意思を抱いたとNHKは報じている。 画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈186… 井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈1864年〉 - 明治22年〈1889年〉9月14日)は、明治時代前期の浮世絵師、版画家。名前はやすはると読むとする説もある。本名は安次郎。作品によっては安次、安二、安二郎、安はると署名し、探景とも号した。 小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。 井上清七の長男として浅草並木町(今の雷門二丁目)で生まる。父は川越鍛冶町(現・幸町)にあった高麗屋という錦織問屋(太物仲買商)に生まれたが、江戸に出て浅草駒形町にあった丸屋呉服店に勤め、のちに一番番頭となっている。兄弟は姉と弟がおり、13歳の時父が亡くなってからは母の手ひとつで育てられたようだ。